世界のKENZOを支えた料理人が見た粋な去り際 専属シェフとして「師」に学んだ人が育つ指導法
2000㎡はあろうかという、パリ・バスティーユの大豪邸。そこで中山氏は、高田賢三の専属料理人としてのキャリアをスタートした。2002年のことだ。サラダや味噌汁など日常の食事から、ホームパーティー、誕生日会、ファッションショーのレセプションまで。専属料理人の仕事は365日、とにかく多岐にわたる。
「彼がこの1週間に何を食べたのか。そのときの反応はどうだったか。栄養バランスはどうか。あらゆる情報を総動員して、その日のメニューを決めていきます」
パーティーの際は、誰が主賓なのかを高田からは一切知らされなかった。食前酒をサーブするタイミングで話しかけてみて、わずかなヒントを拾い上げながらその日の主賓を探り当てる。
今日の客人は、パリに滞在して何日目なのか。せっかくパリに来たのだから思いきりフレンチを楽しみたいのか。そろそろ和食が恋しい頃か。それともさっと軽く食事を済ませたいのか――限られた情報から、その日のパーティーのプランを組み立てていく。
「もちろん、当初のプランどおりに進むとは限りません。会話や表情、食事の進み具合をみながら、料理を追加したり減らしたり、その場でプランを修正していきます。そのための選択肢も事前に用意しておくのです」
そのような環境の下で、専属料理人・中山豊光の、パーティー全体をプロデュースする能力と、時間や人をマネジメントする能力はおのずと磨かれていった。
「君の名前でやっているんだから」
当時の高田の印象を尋ねると「とにかく、仕事には厳しかったですね」と中山氏は笑う。
ある日、リゾットを、米を炒めるところから始める本来の調理法でなく、時間を短縮するために工程を省略した調理法で出したことがあった。
「それを、1か月くらい経ってから『あの時のリゾットはリゾットじゃないね』と指摘されました。少しでも手を抜いた仕事は見逃してくれませんでした」
また、ある日のパーティーでは何人ものスタッフを指揮しなければならず、タイムキーパーを若いスタッフに任せたことがあった。スタッフの経験のためでもあったが、結果として時間どおりに進まず大失敗した。
「この時は本当に怒られました。『言い訳してもダメ。君の名前でやっているんだから』と……。結果がすべてだと、自分のプロ意識の甘さを反省しました」
頭ごなしにガミガミ、ではなく短く、静かに叱るのが高田のスタイル。それは、上司というよりも「親が子どもに注意するようだった」と、中山氏は当時を述懐する。
「ずっと同じ家で暮らしているので、家族のようなもの。だから『身内だと思っているからあえて言わせてもらうよ』というような感じだったように思います」
親のような愛情があったからこそ、ただ叱るだけでなく、時にはさりげなく学びのヒントを与えてくれることもあった。
「日曜日に、絵を描きながら 『今度、あそこのレストランに行ってみたらどうだ』と、ぼそっと言うんです。優しさと怖さが同居しているような、そんな方でした(笑)」
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