NY日本人ピアニスト暴行、「逮捕者いない」現状 海野氏が語る暴行の記憶とアジア人への差別

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人生は一瞬にして方向を変えてしまうことがある。

海野はニューヨークに来るように運命づけられていた。9歳でジャズピアノを始め、18歳には日本でプロとして演奏するようになっていた。レコーディングの機会に加えて、毎晩のようなライブ演奏。ミュージシャンとしてのキャリアは着実で満足のいくものだった。

ところが、10年ほどすると何かが欠けていると感じるようになった、と海野は電話インタビューで語った。日本にいてもレコードは聴けるが、ジャズは録音を超えた何かだ。「文化を知る必要があった」と海野。

27歳だった2008年、海野がニューヨーク行きを切り出すと、母に泣いて止められた。海野の母はニューヨークを危険な場所だと考えていた。「自分のヒーローたちと会って、セッションしたり、話したり、一緒に時間を過ごしたかった。日本にいたら、絶対に実現できないことだ」。

伝説的なドラマーとも競演

海野が妻のさやかとニューヨークのハーレムにやってきたのは2008年6月19日。ジャズの歴史が生きていた場所、それがハーレムだった。「知り合いはゼロ。仕事もなし。でも、心配はしていなかった。ニューヨークにいられるだけで幸せだったから」。

ニューヨークではたいていの夢が破れて終わるものだ。だが、海野は夢をかなえていった。

「ニューヨークのジャズシーンでは職人的なピアノ奏者の1人」。海野について、こう語るのはダウンタウンで「スモールズ」と「メズロウ」という2つのジャズクラブをオーナーとして経営するスパイク・ウィルナーだ。ウィルナー自身、ピアニストである。

「彼はたいへんな努力家で、ハードに練習しているが、必ずしも目立っていたわけではない。だが魅力的なピアニストだ、エレガントでね。優しくて、とても紳士的な男さ。彼は私のことを『スパイクさん』と呼んでいて、私は彼を『タダさん』と呼んでいる。彼はみんなから愛されているよ」

海野はマイルス・デイビスのアルバム『カインド・オブ・ブルー』のレコーディングに参加したことでも知られる伝説的なドラマー、ジミー・コブと仕事で共演したこともある。ジャズの最高峰に手が届くところにまで来ていたわけだ。コブとの共演がきっかけで、大物トランペット奏者ロイ・ハーグローブのバンドで2年間仕事をすることになった。天才ハーグローブは、海野と世代的により近い。

2008年6月にニューヨークへ渡って以来、着実に夢を実現させてきた(写真:Sayaka Unno via The New York Times)

「画期的な出来事だった。ロイは私の前にアジア人を起用したことはなかったから」

そう話す海野からは、このことをとても誇りにしているのが伝わってくる。ハーグローブは腎臓病による心不全で2年前に49歳で亡くなった。海野はハーグローブのバンドでレギュラーを務めた最後のピアニストとなった。

「ロイは私にたくさんの愛と、文化と、歴史を与えてくれた。彼から学んだことについて(引き継いでいく)責任があると感じている。自分自身の音楽を通して、自分なりのやり方で責任を果たさなくては」

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