中国側が有利なビジネスは、なるべく避けよ
では、こうした百戦錬磨の中国人と渡り合うにはどうしたらいいのか。私の失敗例と成功例を示しながら、中国ビジネスを10年ずつ「4つの期間」に分けて解説すれば、少しはわかっていただけると思う。
日中平和友好条約締結後の、最初の10年間(1979年~1988年ごろ)は、「何も知らず、何の経験もなく」中国ビジネスをしていた。当時の中国は経済力も乏しく、日中関係は、どちらかといえば日本側が一方的に中国に技術と資金と人材を供与しながら協力関係を構築した時代だ。「改革開放」政策で、中国は市場経済原理による資本主義体制を大幅に取り入れたわけだが、この時代には日中双方に「期待感と信頼感」があった。
中国にとっては、日本の協力で近代化を図るという、必死の思いがあった。日本側も日中平和友好条約の精神を忘れず、隣人には援助をすべきだとの「熱い想い」で「のめり込んで」いった。私自身、多少のトラブルがあっても「まだ国際的貿易ルールに慣れていないから仕方がない」と考え、中国側の立場を理解する努力を随分としたものだ。中国のパートナーも謙虚で、日本からの支援や技術供与には随分と感謝された「良い思い出」ばかりの10年間だった。
ところが、慣れてくると、今まで信頼関係があると信じていた商売相手も、「本性」を現し始める人が出てくる。取引先の相手によっては、需給バランスが大きく変化した時に、「値なおし交渉」や「契約不履行」などをしたりするケースが出てくるのだ。「基本的に中国では契約観念が希薄だ」という人も多いのだが、ともかく私はこの時期「一度契約したことを守らないのなら、契約の意味はない」という当たり前のことが、通用しないのがチャイナビジネスであることを思い知らされた。
そこで、防衛策の意味でも、自分自身は「常に日本側の立場が強いビジネス」を心がけた。
私の経験した当時のレアメタル取引では、中国は外貨獲得のため、言わば「飢餓輸出」をせざるをえず、買い手が有利であった。これも幸いした。 次の区切りの期間は、1989年から1998年までの10年だ。中国が1989年の天安門事件を乗り切り、海外からの投融資にも助けられて、「世界の工場」として経済を確立していった時期である。
私自身、天安門事件には失望したが、その後の中国との取引では合弁企業を設立、積極的に資源の供給基地として深入りしていった時期だ。ソビエト連邦の崩壊が起こったこともあり、レアメタル市場は大混乱となった。だが私は合弁会社を設立することで得意先と運命共同体となり、投融資を実行することで付加価値のある事業を展開させることができた。
特に1995年以降の中国市場は、国営企業を中心にめざましく発展した。私は国営企業中心のビジネスを志向したので、ビジネスは比較的安定していた。ただし、貧富の差が表面化してきたために、一部には民間企業との取引で痛い目に会ったことはあった。
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