今日までの経済学は、二百年以前の英国から起つて来た。これは当時の英国の経済事情を背景にしたものだ。だが、このマンチェスター経済学((注)自由主義経済学)を、私は、いつも動かざる真理だとは思つてゐない。
そこで今までの考へだと、財政は常に収支の均衡を保たねばならぬと云ふ。けれどもこの国を見ても、初めはなかつた借金がだんだん増えてゐる。戦争とか天災とか、思はぬ事件がどこの国にでも、次ぎ次ぎに起るからだ。しかしさう借金が殖えて行く結果はどうなつたかと云ふと、一面産業は大いに進歩し、国の富も殖えたので、国債の増加も苦にならない。十分、その重みに堪へる力が出来て来たのだから赤字公債と云ふものもさう理屈通りに気に懸けることはない。場合に依つては、借金をしても進んだ方が善い。又已むを得ず借金をしなければならぬ場合もある。しかしその結果、国民の働きが増せば、茲に富が出来る。前の借金くらゐ何でもない。(随想録)
今日、高橋が財務大臣であれば、このコロナ危機に処するため、100兆円規模の財政赤字も躊躇しなかったであろう。
当時、膨張する経済対策費や軍事費、あるいは国債の利払い費を支弁するため、増税が必要であるという議論があった。軍部もまた、軍事費を増大させるため、増税を主張していた。しかし、高橋は、増税を断固拒否した。増税は、国民の購買力を奪うものだからだ。
しかしながら現内閣が時局匡救、財界回復のために全力を傾注しつゝあるこの際、増税によりて国民の所得を削減し、その購買力を失はしむることは、折角伸びんとしつゝある萌芽を剪除するの結果に陥るので、相当の期間までこれを避くるを可なりと認めたる次第であります。(経済論)
「固定概念」を打ち破る思考
安倍政権は、2014年に消費税率を8%に引き上げて、「折角伸びんとしつゝある萌芽を剪除するの結果」に陥り、さらに2019年にも消費税率を10%に引き上げ、深刻な景気後退を招いた。高橋が財務大臣であったならば、絶対にありえない判断であろう。
今日、財政赤字を拡大してよいとするMMTの主張に対しては、多くの経済学者が、まるで示し合わせたかのように「インフレが制御不能になる」という批判を繰り返している(「MMT『インフレ制御不能』批判がありえない理由」東洋経済オンライン 2019年5月29日)。
どうやら、1930年代当時、高橋に対しても、同じような批判があったようだ。これに対して、高橋は、こう反論している。
能く世の中でインフレーションと言ふが、インフレーションの弊害は今のところ少しもない。それから公債は出るけれども、その公債を出して政府が使つた金はいろいろ働きをして又再び中央銀行に戻つて来る。さういふ訳で兌換券発行高といふものは、季節的に月末とか季節末には殖えるが、平常はさう俄に殖えない。一方に於ては徐々として需要供給の原理に基いて物価が上がるものもある。けれどもこれもさう急激な騰貴はない。(随想録)
実際、その通りで、高橋が蔵相の間、インフレ率は年率3%未満であった。
こうして、高橋は、高インフレを伴うことなく、世界に先駆けて、恐慌からの脱出に成功した。まさに、「固定概念を打ち破る思考の偉業」であった。
しかし、この令和の日本で、高橋のような「固定概念を打ち破る思考の偉業」を成し遂げられる者が、果たしてどれだけ現れるというのだろうか。
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なかの たけし / Takeshi Nakano
1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『奇跡の社会科学』(PHP新書)などがある。
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