個人プレーに長けて、ドライなヨーロッパ人営業
三宅:坪内さんがヨーロッパに行って、まず手掛けたことは何ですか。
坪内:私が赴任したセントラルヨーロッパ社は、ポーランド、チェコスロバキアなど中東欧の当時12カ国を担当しており、各国に小さな子会社を持っていました。その12カ国の売り上げを全部合わせても20億円しかなかったのですが、これをできれば5年で100億円ぐらいにしたいと思っていました。
ところがなかなか売り上げを伸ばせず、25億円くらいまで上がったところで、私はベルギーの本部に異動になりました。セントラルヨーロッパ社は、今ではもう売り上げ100億円を優に超える大きな会社になっています。私の力ではなく、当時の経営幹部だった現地の人たちが売り上げを伸ばしているのだと思います。私は初期にいろいろな種をまいたという位置づけぐらいかなと。
三宅:当時、付き合っていたウィーンやポーランドの方々が、その後、活躍して実現しているのですね。
坪内:そうですね。当時、難しかったのは、現地の人の営業のやり方が、すべて業界の用語でいう「物件縦追い営業」だったことです。つまり、大型物件の建築設備の設計図面にダイキン製品の仕様織り込みをしていただく「スペックイン」、そしてその刈り取りをする、つまり受注する、このすべてをずっとひとりで追いかけていくのです。
セントラルヨーロッパ社は、このような「縦追い」営業が得意でしたが、一人ひとりが物件を追いかけるのに時間がかかるので、なかなか機器の大拡販ができない。だからエアコンが普及しない。販売店を開発して販売網を作ったり、設計事務所に新しい提案をして、ダイキン製品をどんどんスペックインしてもらったりするという発想にならないので、この転換をするのは大変なことでしたね。
私は当時、副社長でしたが、ラインを持たない副社長が何を言っても、営業担当者にとってみれば自分を評価する人ではないので、彼らはなかなか言うことを聞いてくれないのですよ。
三宅:そのあたりは、欧米の方はドライなのでしょうね。
坪内:もうホント、ドライですよ。当時の現地トップの考え方はどちらかというと物件を追いかけることが大事で、広く営業するという考え方が弱かったので、営業のスタイルを180度変えて拡大していくのは難しかったですね。今、事業が大きくなったのは、そのときの若い部長や課長がやり方を変え、広く拡大していく方針になったからではないかと思います。
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