中央銀行についての考察も興味深い。岩井氏は、1694年に設立され、イギリスの金融システムの頂点に君臨した「イングランド銀行」の歴史をひもとく。
出発は民間銀行だったが、19世紀に入り、イギリス帝国率いるグローバル資本主義によって幾度もの景気循環を経験し始めると、イングランド銀行は自発的に変容する。自行の利益を後回しにして、他銀行に融資をしたり、平時でも銀行券の発行量を調整して景気循環を和らげるなど、「中央銀行」としての働きを担うようになるのだ。
これはフリードマンの言う「不純物」ということになるが、イングランド銀行は、そうしなければイギリス資本主義全体に影響が及ぶことを知っていた。経済の安定化という「公共の目的」を果たす機関が必要だったのだ。
そして1946年、正式に国有の中央銀行に転換。このイングランド銀行の歴史からは、自由放任主義的な思想が抱える矛盾を学ぶことができる。
アリストテレスの警告
フリードマンの理論を徹底批判した岩井氏は、次に公共性の高い共同体というものに目を向ける。ひもとかれるのは、古代ギリシャのアリストテレスが論じた概念だ。
アリストテレスは、「他者とともによく生きる」ために、一部の人間が独善的になることを防ぎ、公平公正な国家的な制度を発展させた共同体を「ポリス(都市国家)」と呼んだ。
ポリスが維持されるためには、貨幣が不可欠だったという。職人、農民、医者などあらゆる職業の市民同士が、「自分が提供できるモノ」を「自分が必要とするモノ」と交換して生きていくためには、貨幣という「媒介物」が必要だったからだ。
例えば、靴職人が家を建てたいとき、物々交換の世界では、家1軒に見合うだけの数の靴を欲しがる人を見つけなければならない。だが、そんな欲求はマッチしない。そこで、貨幣を媒介とするわけだ。
だがアリストテレスは、この貨幣こそが、ポリスの「自足性」を破壊するということも述べていた。貨幣交換が拡大するにつれ、本来はモノを手に入れる「手段」だった貨幣が、貨幣それ自体を「目的」とする、つまり、金儲けだけを目的にし始めるというのだ。
これは、岩井氏が考察してきた資本主義の不安定性とも重なる。貨幣と資本主義の本質を、すでに約2400年前、アリストテレスが思想していたのである。
岩井氏はアリストテレスの思想に、こう補足する。
お金が「手段」から「目的」に転化したとき、人間は「このお金であらゆるモノを手に入れられる〈可能性〉」を見るようになる。人間は、可能性それ自体を欲望することができる存在、つまり「『貨幣』それ自体を『欲望する』」と。
人間に想像力がある限り、この欲望は満たされはしない。「貨幣の無限増殖」を求める欲望は膨れ上がり、そしてこれが資本主義の姿でもあるのだ。
古代ギリシャのポリスが貨幣化したのは、「民主制」の起源とされる五百人評議会よりもはるかに先立っていた。マルクスの言うように、貨幣はポリスの個人に「自由」を与え、それが、1人ひとりが独立した市民として議会で投票する「民主制」の発展を促したという。
だが、貨幣経済における「自由」は、個人を共同体から切り離し、孤独にする。そのような個人の徹底的な「孤独」に焦点を当てたものがギリシャ悲劇だと岩井氏は述べる。その孤独は現代の私たちにも通じる。だからこそギリシャ悲劇は上演され続けているのだという分析は、岩井氏が持つ、教養の深さゆえの「思考の自由」を味わえるところだ。
いま、グローバル資本主義によって共同体は崩壊し、人々は孤独にスマホを見つめている。社会的な連帯意識、慣習、国家や中央銀行による規制や介入は弱まり、格差は先鋭化し、多くの人が分断やパニックを目撃中だ。
《貨幣は人間に「自由」を与えました。だが、貨幣を基礎とする資本主義社会は、本質的に不安定です。その不安定性を放置しておくと、資本主義社会自体を危機におとしいれてしまいます。その行き着く先は、ポピュリズムか全体主義です。自由を守るためには、自由放任主義思想とは決別しなければならないのです》(『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』第3章より)
貨幣について考えることは、人間の自由と尊厳について考えることでもある。これまでの世界を振り返り、これからの世界について、思想しておく必要があるだろう。本書はそのためにも非常に役立つ1冊だ。
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