「おでん種店」が東京でこんなにも減っている訳 東京中のおでん種店を回ったマニアが解説
もともとは冷蔵・冷凍技術が発達していない江戸時代に、市場でその日中にさばけなかった魚を安く仕入れ、すり身にしてゆでかまぼこや、揚げかまぼこなどにして提供したのが、おでん種店のルーツとされているという。
その後時代は進み、日本は太平洋戦争を迎える。戦中や戦後はそうしたかまぼこ類の原材料が乏しくなり、原材料の幅が広い揚げかまぼこが重宝され、貴重な動物性タンパク質の摂取源として家庭や学校で広く親しまれるようになる。材料が比較的手に入りやすく消費者からの需要が高いということで、当時のおでん種店は利益効率の高い商売だったようで、繁盛して自社ビルを建てるおでん種店も少なくなかったという。
「揚げかまぼこをおでんに入れるのが定着したのも、戦後復興期や高度経済成長期だと考えられ、それ以前は、おでんに入れずそのまま食べるのが一般的でした。だからおでん種店の多くは、もともとの業態であるかまぼこ店を名乗る店が多いんです。また東京におでん種店が多く集まったのは、人口が多いことに加え、築地市場に全国からさまざまな魚が入ってきたことが大きかったようです」(源太氏)
そうした隆盛の風向きが変わったのが、1970年代半ばに起こった、「200海里問題」だ。自国から200海里(約370km)を超える水域で自由に漁をすることを禁じる200海里水域制限により、日本の遠洋漁業は大きなダメージを受ける。
「以降、日本の遠洋漁業生産量は減少の一途をたどります。ピークだった1973年に約400万トンありましたが、2015年には36万トンまで減っています。かまぼこの原料となる魚のすり身をおでん種店などに供給していた日本の大手水産企業は、アメリカなどからの輸入に頼らざるをえなくなり、価格や供給量を仕入先に左右されるようになります。
それ以降、仕入れ先の国の状況や世界的な魚食ブームなどで、すり身の価格は段階的に大きく上がり、中小零細のおでん種店にとっては大ダメージとなりました」(源太氏)
このほかにも、食生活の改善や、食の欧米化によってかまぼこ類がかつてのようには食べられなくなったこと、スーパーなど大型店の台頭で商店街が衰退したことなどが、おでん種店の苦境の原因として挙げられる。
増田屋の店主、中山貴司氏も、「私が店を継いだ30年前に比べ、原材料価格は約2倍半に上がりました。一方、自店で商品を作る量は、半分ほどに減りました。50年前はいい商売だったようですが、今はうまみが少なく、後進には勧めづらい」と話す。
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