鈴木信太郎(1895~1970年)は、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった象徴主義のフランス詩の翻訳者、研究者として知られる。彼よりひと世代上の上田敏、永井荷風らは明治日本で初めてフランスに渡り、原書からフランス文学を日本に紹介した第一世代だが、鈴木はそれに続く世代である。
その書斎には重厚な作り付けの書棚が並び、自身がデザインしたステンドグラスからは光が差し込み、暖炉風のガスストーブやアールヌーボー調のデザインの照明器具などが設えられ、まるでパリの邸宅の一室のようである。
ステンドグラスに記されているのは、マラルメの「世界は一冊の美しい書物に近づくべくできている」という言葉だ。蔵書約7000冊は現在獨協大学に所蔵されているが、この記念館にも約1万冊の本が収蔵されている。
神聖な場所であった「書斎」
信太郎にとってこの書斎は仕事部屋でもあり、友人たちと集うサロンでもあった。一方、家族にとっては「神聖な場所」であり、子どもたちは出入りを禁じられ、用があるときはノックをして「お入り」と言われるまで中に入ることはできなかったという。
1928年という、まだ一般の家には鉄筋コンクリート造が珍しい時代に、この書斎が建設されたのは、それ以前に、信太郎が二度にわたって大事な書物を火災によって失う苦い経験をしていたためであった。
1923(大正12)年の関東大震災では、東京帝大の図書館などが消失し、貴重な学術書が灰となった。その後、大正末に信太郎がフランスに私費留学した際には、パリの著名な古書店であるシャンピオン書店などから買い集めた約1000冊の貴重な書籍を船火事で失っている。フランスで心血を注いで買い集めた当時入手困難だった本をすべて失ったことで信太郎はノイローゼに陥ったという。
そうして、学者にとって何よりも大事な財産である本のためには、耐火構造の書斎・書庫が不可欠であると確信。直ちにその計画に着手し、1928年に書斎は竣工した。その甲斐あって、1945(昭和20)年4月の空襲で一帯が焼亡した際には、同じ敷地内にあった木造の住居は全焼してしまうが、この書斎だけは焼失を逃れている。
信太郎がこのような書斎を建設することができたのは、実家が埼玉県北葛飾郡富多村下吉妻(現在の春日部市)の大地主であり、長男として、生まれながらにしてこの莫大な財産を相続することになっていたからでもあった。
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