敦賀湾は三方をすっぽり陸に囲まれた良港であり、畿内に近い地理的環境も手伝って、古くから国内外と畿内を結ぶ機能を担ってきた。江戸から明治にかけては北前船の寄港地の1つとしてにぎわい、市内には今も大手のコンブ加工・販売会社が本社を構える。
1899(明治32)年、敦賀は外国貿易を行う開港場に指定され、「港のまち」としての本格的な歴史を刻み出す。1902年、ロシア・ウラジオストクとの定期航路開設。1912年には、東京・新橋を起点とする国際ルート「欧亜国際連絡列車」が敦賀港まで運行されるようになり、日本からウラジオストク・シベリア鉄道経由でヨーロッパへ向かうルートができた。
敦賀は海陸のゲートウェー、そして日本と世界のゲートウェーとなった。第2次大戦を挟んで、1970年代以降、苫小牧との間にフェリー航路が、苫小牧や博多と、釜山、上海などとの間に貨物航路が開設された。
「鉄道と港のまち」の往時を、敦賀港にある観光施設「敦賀赤レンガ倉庫」のジオラマが再現している。明治末から太平洋戦争直前の市街地を、当時の習俗や祭りを交えて描き出した。幅27m、奥行き7.5mと国内有数の規模という。この街並みと暮らしは、1945年7月12日の空襲で失われた。敦賀赤レンガ倉庫は、惨禍を生き延びた建物の1つだ。1905(明治38)年に石油貯蔵庫として建設され、2009年に登録有形文化財の指定を受けている。
人道の港、リンゴをシンボルに
「境界のまち」敦賀は1940(昭和15)年、生死の境界につながる港となった。前年に勃発した第2次大戦とナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ人が、ソ連併合間際のリトアニアに押し寄せた。
彼らのうち数千人が、日本の外交官・杉原千畝(1900~1986年)が本国の意向に反して発給した「命のビザ」を手にし、脱出に成功したという。シベリア鉄道、ウラジオストク経由で敦賀に上陸した後、彼らは世界各地へ散っていった。敦賀港には、杉原千畝を顕彰する資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」が建つ。ユダヤ人たちのほか、1920~22年、革命で混乱するソ連・シベリアから日本赤十字社などにより救出されたポーランド人孤児たちも、やはり敦賀に上陸し、故国へ戻ったという。
市内には、「命のビザ」で上陸したユダヤ人らに、少年がリンゴをふるまったというエピソードが残る。リンゴはやがて、敦賀市のシンボル的な存在となった。市は2014年、圧縮してリンゴ型に整形したタオルをPR用に開発し、2016年の伊勢志摩サミットでは各国代表に記念品として配られた。筆者も2019年11月、敦賀市役所を訪問した際、渕上隆信市長にこのリンゴ型タオルを手渡された。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら