大牟田、「石炭と鉄道」で発展した街の栄枯盛衰 西鉄の終点、新幹線の駅もあるが・・・
九州で唯一の大手私鉄として奮闘する西日本鉄道(西鉄)は、発足直後に広島への進出、高度経済成長期には熊本への進出も検討していた。経営陣は福岡県内の一私鉄で終わるつもりはなく、そうした思いが西日本鉄道というスケールの大きな社名につながっている。しかし、結果として西鉄は福岡県内だけにとどまっている。
西鉄に「本線」と名の付く路線は存在しないが、西鉄福岡(天神)駅―大牟田駅間を結ぶ天神大牟田線が本線格として扱われる。その最南端に所在する大牟田は、炭鉱の町として発展してきた。
九州はあちこちに炭鉱が点在し、大牟田は突出した採炭量を誇ったわけではない。それでも大牟田と炭鉱は切っても切れない関係にある。なぜなら、大牟田で石炭が発見されたのは1469年。組織的な採炭が開始されたのは1721年。これらの記録はともに日本初であり、大牟田を抜きにして日本の石炭史、もっといえばエネルギー史を語ることはできないからだ。
江戸時代から始まった採炭
江戸時代から始まった大牟田の採炭は、三池藩が担当した。明治維新によって炭鉱は政府が管理する官営鉱山となる。そして、明治半ばから西洋式技術が導入されて、飛躍的に採炭量は増加した。
三池炭鉱を近代化に導いた立役者は、後に三井の大番頭となってグループを牽引した團琢磨だ。團は九州新幹線の新大牟田駅前や、三井財閥の迎賓館として機能した三井港倶楽部、大牟田市石炭科学産業館などに銅像や胸像が建立されているほど、大牟田発展史に欠かせない人物として知られる。
團は岩倉使節団の留学生として鉱山技術を習得し、帰国後は工部省の役人として三池炭鉱に赴任した。この頃はまだ九州に鉄道はなかったが、鉄道敷設の機運が高まり、福岡県・佐賀県・熊本県の実業家によって1888年に九州鉄道が設立される。初代社長には大蔵省と農商務省で官僚を務めた高橋新吉が就任した。
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