「寅さん」を支えた葛飾柴又の知られざる人情 山田監督や渥美清は親戚のような存在だった
葛飾柴又、中でも帝釈天題経寺と門前は、「寅さん」の心のふるさと、映画になくてはならない舞台。1968年から27年にわたり、盆と正月の前の年2回、山田洋次監督は俳優やスタッフたちを引き連れてそれぞれ2カ月近く通った。柴又の人たちにとって「寅さん」映画を創る人たちは、年に2度やってくる親戚のような存在になっていった。柴又で暮らすお2人に映画について語ってもらおう。
休憩室として使われた草だんご屋
まずは、『男はつらいよ』第2作から店を休憩室として提供した髙木屋老舗の6代目であり、柴又神明会会長の石川宏太さんから話していただこう。
1969年に第1作のロケが始まると、山田組の皆さんは、まちのあちこちを休憩所として使われていたのですが、2作目からうちを休憩室にご利用くださいと母がお声がけし、お世話させていただけるようになりました。事務所には山田監督がおられて、コーヒーを飲みながら脚本を直していらっしゃる。2階は出演者の控え室、参道を挟んで向かいの店舗はスタッフが使っていました。
マドンナも来ました。高校生の私の住まいに吉永小百合さんがいたときの動揺は今も忘れられません。私はまだ17歳でしたから、自分が普段暮らしている空間に輝くほど美しい女優さんがいることがものすごくショックでした。
母の光子は柴又をピーアールしてくださるのだからと言って、撮影期間中のお食事を用意しました。ロケの始まりの日はお赤飯を炊いて成功を祈願し、それ以外でもみなさんのお口に合うものをこしらえました。山田監督はしばしばうちに泊まり、居間のちゃぶ台を囲んで父や母と話をされていました。柴又の人たちはどんな暮らしぶりで、どのような考え方をしているのか、すごく興味を持たれているようでした。