なぜ軽井沢だけが「高級リゾート」になれたのか 外国人が着目、鉄道網の整備で差がついた
鎖国が解かれた頃から外国人、主にお雇い外国人たちが避暑地として軽井沢に着目。近隣に草津温泉があることも奏功し、軽井沢は静養地として評価を高める。そして、外国人たちが別荘を建てていく。
しかし、それは一部の外国人たちの話にすぎない。当時、まだ信越本線は全通していなかった。上野駅から高崎駅までが開業するのは1884年、高崎駅から碓氷峠の東端である横川駅まで開業するのは1885年。横川駅と軽井沢駅との間に鉄道が走り始めるのは1893年まで待たなければならない。
鉄道が開業した後も碓氷峠が難所であることは変わらず、横川―軽井沢間は急勾配を克服するために歯車と歯形のレールをかみ合わせて登る「アプト式」を採用した。途中に熊ノ平信号場(後に駅に昇格)での約5分間の給水作業を含め、軽井沢駅―横川駅間は1時間15分を要した。
明治前期は鉄道網が充実していなかったことから、軽井沢は突出した避暑地ではなかった。しかし、鉄道網の整備によって軽井沢はしだいに名声を高め、近隣の宿場町だった沓掛や信濃追分との差を広げていく。そして、それは時代を経るごとに広がり、軽井沢はほかの街を飲み込んでいった。
1910年に開業した沓掛駅は、1956年に中軽井沢駅へと改称。信濃追分駅も西軽井沢駅へと改称する提案がなされた。信濃追分駅は地元の反対で改称することはなかったが、年を追うごとに軽井沢ブランドは強まり、周辺は「軽井沢化」した。
政界の大物も愛した軽井沢
碓氷峠における鉄道建設では、お雇い外国人のチャールズ・アセトン・ワットリー・ポーナルが活躍した。軽井沢駅―横川駅間の建設技師長を務めたポーナルは、まだ未熟だった日本製のレンガを用いて鉄道橋を架橋。日本人技師・本間英一郎とともに軽井沢への道を切り開いた。
東京からアクセスが容易になったことで、軽井沢には政府要人の別荘が建てられていった。また、皇族も別荘を建設。1910年に洋風建築の新駅舎が竣工されると、軽井沢駅舎内には貴賓室が設けられた。
各国の大使館も出張所を置くようになり、昭和に入る頃には「夏になると外務省が軽井沢に移る」とまで言われるほどに外国人で活況を呈した。
避暑地・軽井沢を愛した政府要人は多いが、その中でも代表的な人物を挙げるとすれば、公爵で後に首相を歴任した近衛文麿だろう。
父親の近衛篤麿は貴族院議長や学習院院長などを務めた名士だったため、文麿にかけられた期待は大きかった。公爵だったこともあり、1916年に満25歳に達した時点で近衛文麿は自動的に貴族院議員に就任。以降、忙しく政務をこなすことになる。
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