なぜ軽井沢だけが「高級リゾート」になれたのか 外国人が着目、鉄道網の整備で差がついた

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軽井沢は政治家たちに愛されたが、日本人の別荘が増える端緒を切り開いたのも政治家だった。初めて別荘を構えた日本人は、福井選出の衆議院議員・八田裕次郎だった。八田は1893年に別荘を構え、それが日本人にも別荘を持つという概念を芽生えさせた。

大手ゼネコンの鹿島を創立した鹿島岩蔵は、そうした新しいトレンドを察知。1898年頃より、日本人向けに貸別荘業を開始した。鹿島に遅れて、三井財閥も軽井沢の別荘開発に参入。軽井沢の別荘地ブームは、こうして勢いを増す。

現在の軽井沢駅一帯は、西武グループの商業施設やホテルが立ち並んでいる。これは西武鉄道の親会社的なポジションにあったコクドによって大規模開発が進められたことに起因している。西武の総帥である堤康次郎は持ち前のバイタリティーを発揮し、軽井沢を避暑地から総合リゾート地へと押し上げた。

西武・堤は軽井沢の開拓史に輝かしい功績を残したが、堤の軽井沢開拓は後発だった。軽井沢開拓における功績者は先述した野沢源次郎を抜きに語れないが、野沢は鉄道との関係が薄いので、ここでは触れない。

鉄道界の重鎮たちも虜に

堤よりも早い時期から軽井沢開拓を始めた鉄道人といえば、中央線の前身である甲武鉄道の創業者・雨宮敬次郎を挙げないわけにはいかない。

雨宮は、軽井沢に鉄道を通そうとしたわけではない。有望な開墾地、つまり農園として可能性を見出していた。

それまで雨宮は、農園を開くにあたって富士山麓か軽井沢かで迷っていた。雨宮は政府が建設する東京―大阪間の鉄道が東海道経由で建設されるなら富士山麓、中山道経由で建設されるなら軽井沢に農園を開くことに決めていた。そして、政府が中山道経由で鉄道建設を進めると聞きつけたため、私財を投じて軽井沢の土地を買収し、農園経営に乗り出した。

軽井沢開発史には、東武鉄道の総帥・根津嘉一郎も登場する。根津も鉄道を計画していたわけではなく、武蔵高等学校(現・武蔵大学)の夏期講習のための施設、いわば合宿所を造成しようと考えていた。

軽井沢は雨宮や根津、堤といった私鉄経営者ばかりではなく、鉄道官庁の重鎮たちも魅了している。

1908年、鉄道院副総裁の平井晴二郎が野村龍太郎などを伴って軽井沢を訪問した。野村は後に満鉄総裁や南武鉄道(現・JR南武線)・湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の社長を歴任した人物でもある。

平井と野村が信濃追分を訪れた理由は、信号場を設置するための現地視察だった。平井と野村はすぐに軽井沢の虜になった。そして、現地の旅館経営者から懇願されたこともあって、信濃追分の信号場は夏季のみ臨時駅として活用することになった。

臨時駅ながらも、信濃追分駅は多くの避暑客が利用するようになる。後に鉄道院副総裁を務める長谷川謹介も、それまで軽井沢駅界隈に宿泊していたが、信濃追分駅が開設されると、定宿を同駅の近くへと変更している。

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