「バカと思い込みの強い人」が世の中を変える 年齢やキャリアを重ねてもサードドアは開ける
ビル・ゲイツやスピルバーグなど数々のビッグネームにぶつかっていきますが、そこで概念化したいことがあるわけでもなく、ただ「会えば何か学べるだろう」という虫のよさがある。それで7年間にわたって走ってしまうなんて、これはちょっとすごいことだと思いましたね。
人は、ある程度功成り名を遂げると、なにか新しいことをやろうと思い立っても、なかなか手をあげにくくなりますよね。がむしゃらに挑戦しようとしても、できそうなことやよさそうなことを分別して、自然に勝手に選んじゃう。そうならないすばらしさ、価値の高さを、アレックスはこの本で体現しているんです。
ビッグネームの身になれば、もう中高年になった人間が、18歳の子どもと会ったところで、何か議論して学べることもないわけです。でも、仕方ないから会ってやるかと思って会ってみて、こいつは育ててみたいな、学習能力があるなと思うと、なにか語りかけてやる。ただ、それを受け手がきちんと理解できるかどうかは別だということも、うまく描かれていますね。
読者の体験の厚みが理解を深める
アレックスは、当初、せっかく語ってもらった話をそれほど理解できていないんですよ。これは、彼にはまだ知識づけの厚みがないから、しょうがないことだと思います。
僕は高卒で郵便局に入って6年現場で働き、その後は組合本部で20年働きました。そして、45歳で立教大学法学部に入った。大学では、本当にすばらしい講義がたくさんありましたよ。
ある先生は、「教育、宗教、思想というものには、共通点がある。学んだ人間が、『自分は他人が知らない正しい真実を手に入れた』と思い込むところがあり、それを人に伝えて教えたくなるという点だ」とおっしゃいました。
僕は、そういう人を社会経験上たくさん見てきましたから、ああ、なるほど、僕が学んできたマルクス主義もまさにその典型だと納得がいって、感銘を受けました。ところが、若い学生たちの評判はとても悪かった。先生の言っていることは、「なんのことやらわからない」とね。
どうしても、話す側の言葉の持っている厚みや背景知識と、聞く側の能力には、ズレがあるものなんです。読書だって、名作と呼ばれる本でも、わからない人にはわからない。福沢諭吉の『福翁自伝』も、20歳で読むのと、40歳で読むのとではまったく意味が異なります。
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