光太郎の「必死の時」は「いさぎよさ」「未練をすてよ」という表現に戦死の美化がうかがえ、研ぎ澄まされた生き方が「美」と形容され、美しいからこそ追求すべきだとしている。美に眩惑され、その隣にある死は見えなくなっている。しかもこの詩は形式的にも内容の明確さからも美しかった。
──アニメ『風立ちぬ』の問題は?
主人公の技師、堀越二郎が希求する「美しい飛行機」は戦闘機、要は殺戮(さつりく)兵器です。これを二郎の「美しい妻」・菜穂子への愛と並置し、「美しい」という言葉でひとくくりにすると、「美を追求すること」=いいことになり、殺戮兵器の設計という負の部分が覆い隠されてしまう。実際、二郎の設計したゼロ戦は、彼の言う「美しさ」の追求のために防弾鋼板を省いたため、多くの操縦士が命を落としました。
「美の追究=美」の危険性
──光太郎より罪深い面がある。
光太郎は敗戦後、軍国主義への協力を反省し、今の岩手県花巻市郊外の過酷な環境で7年間独居しました。いわば自分を流罪に処した。ただ、戦後も彼は「美は絶対的な帰依の対象」と発言していて、美が内包する危うさに気づいていない。戦争に勝っていたら同じことを繰り返した可能性はあります。
一方で『風立ちぬ』は美の追求自体が美しいという構造です。光太郎の美の追求は敗戦によって反省する余地があったが、美の追求=美となると、失敗しても原因は追求度合いの不足となり、美の追求を繰り返すことになる。無限ループ、眩惑作用の極致です。
──また、眩惑作用は波及する。
花巻市では光太郎の住居が保存され、その隣に記念館があるのですが、パネルの説明を読んでも、自己流謫(るたく)という影の部分に触れていないので、なぜ著名な芸術家が7年間も命懸けの生活をしたのか、ほぼわからない。いかに地元の人々が光太郎を尊敬し、そのすばらしい面を強調したいとしても、これでは光太郎が気の毒です。
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