ファンケル「82歳の創業者」がキリンと組むわけ 「今年で82歳。私が死んだら社員が困る」
ファンケルは池森氏が1980年に創業。当時化粧品による女性の肌トラブルが増加していたことから、無添加化粧品の開発・販売に乗り出したのがきっかけだ。
池森氏は2003年に会長を経て、2005年に名誉会長に就任し、経営の第一線から離れる。その後、競争が激化するなどしてサプリメント事業が低迷。主力の化粧品事業もブランド再構築に失敗し、2013年3月期に21億円の最終赤字に転落した。
池森会長の復帰後、業績は上向き始める
池森会長の退任後は、社長も定まらなかった。2003年から2006年まではダイエー取締役を経てローソン会長から転身した藤原謙次氏が社長に就いた。その後、2007年からは同じくダイエー出身の宮島和美氏、2008年からは蛇の目ミシン工業出身の成松義文氏と、毎年のように社長が交代した。こうした状況に業を煮やした池森氏は、2013年1月に名誉会長兼執行役員として経営に復帰した。
池森会長が再登板してほどなくすると、2015年4月には食品に健康の効能を表示できる「機能性表示食品制度」がスタート。これを好機ととらえ、日本で初めて目の機能性表示食品「えんきん」を2015年6月に発売。目のぼやけを緩和するこのサプリメントは、同社のコア製品へと育っていった。さらに、広告宣伝を積極化したことやインバウンドの恩恵も受け、業績は上向き始めた。
ファンケル株を8.7%保有(2019年3月時点)する筆頭株主でもある池森会長は、3年前から保有株の譲渡先を検討し始めた。池森氏は「息子は画家。弟2人も70代を超えている。いずれはどこかに持っていただかないといけないという気持ちもあった」と漏らす。
真っ先に頭に浮かんだのがキリンだった。「品位のある企業として好印象を持っていた。この企業の下ならば、ファンケルの独自性を維持しながら成長を続けることができる。交渉相手は最初から1社に絞った。私が勝手に選んで、勝手に交渉を申し込んだ」(池森会長)。キリンの磯崎功典社長と初めて会い、保有株の譲渡先として考え始めたのは今年に入ってからだという。
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