なぜか大開発されなかった乗換駅「登戸」発展史 かつては砂利輸送の拠点、今は緑地の街に

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同地に秘密研究施設が開設された最大の理由は、小高い丘という周囲から隔絶された地形にあった。人里離れた地で、しかも丘の上。これなら人の出入りを制限しやすい。そうした地形的な特性を踏まえ、陸軍は登戸研究所を開設。ここでは中華民国の紙幣である法幣の偽造や電波兵器の開発といった、極秘の研究が進められた。

日中戦争時、陸軍が中国大陸でばらまいた偽法幣は、日本の戦力を疲弊させない経済的攪乱作戦だった。登戸研究所から神戸港・下関港・長崎港まで偽法幣を運び、大陸に渡って市中に流通させる――といった作戦が立てられていた。

交戦中とはいえ、相手国の偽札を製造することは国際法でもご法度だった。登戸研究所内での偽札製造は、政府関係者や陸軍でもトップシークレットとされた。

製造することは秘密にできても、大陸までの運搬中に露見することが陸軍を悩ませた。仮に偽札製造が露見すれば、日本は国際的な信用を失う。そうした事態を防ぐため、陸軍中野学校の生徒から運搬役が選抜された。

運搬役を任じられた生徒たちは最寄駅だった東生田駅ではなく、小田急の稲田多摩川駅もしくは南武の登戸駅を出発駅とした。

登戸駅から南武線で川崎駅まで行き、東海道本線に乗り継ぐルート。もしくは、小田急で新宿駅に出てから山手線・中央線を使って東海道本線に乗り継ぐルート。主に、この2ルートで偽法幣は運ばれた。鉄道の要衝地だった登戸は、帝国陸軍の極秘作戦においてもフル活用された。

開発の波が及ばなかった理由

話を戦後に戻そう。高度経済成長を経ても、登戸駅の風景は変わらなかった。一方、同じ川崎市内の東急沿線は違った。東急は1950年代から多摩田園都市の開発に着手。東急沿線は爆発的に人口が増加し、その影響で高津区から宮前区が分区した。

登戸駅のある多摩区は、東京都が主導する多摩ニュータウン開発の影響を大きく受けた。多摩ニュータウン開発は、京王相模原線や小田急多摩線など鉄道網、そのほか道路・上下水道といった生活インフラが整備された。

多くの利用者で終日にぎわう小田急の登戸駅(撮影:大澤誠)

多摩ニュータウンの影響は、東京都と神奈川県境に近いエリアで形になって現れる。多摩区は東京都境と接しており、県境で人口が増加。そのため、1982年に多摩区から麻生区が分区した。しかし、登戸駅まで多摩ニュータウンの恩恵は届かなかった。

こうした開発史を振り返って、登戸駅は発展から取り残されたと受け止めるか、それとも住環境を守ったと考えるかは人によって異なるだろう。

オフィスビルや商業地といった都市化を目指す開発ではなく、登戸駅界隈は自然と調和するまちづくりが進められた。そこには多摩川や多摩丘陵という自然が豊富にあり、これらを大事にするという地域住民の考えが根底にあった。登戸駅の一帯は地権者が多く、複雑だったために区画整理・再開発が困難だったという事情もある。

いずれにしても、登戸駅は鉄道の要衝でありながら、大規模な開発とは無縁だった。

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