なぜか大開発されなかった乗換駅「登戸」発展史 かつては砂利輸送の拠点、今は緑地の街に

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貨物輸送で活況を呈する稲田多摩川駅よりも、小田急は隣の駅である稲田登戸駅(現・向ヶ丘遊園駅)に旅客需要を掘り起こす可能性を見出していた。

実際、開業当初の小田急では稲田登戸駅、新原町田(現・町田)駅、相模厚木(現・本厚木)駅、大秦野(現・秦野)駅、新松田駅を五大停車場としていた。小田急は西洋風のマンサード屋根の駅舎をつくるほど稲田登戸駅に力を入れた。そうした点からも、明らかに稲田登戸駅の方が格上だった。

今年4月にリニューアルを果たした向ヶ丘遊園駅南口。マンサード屋根の北口駅舎を模した形が特徴だ(筆者撮影)

時代とともに小田急の駅舎は老朽化し、順次、建て替えられた。マンサード屋根を残すのは向ヶ丘遊園駅の北口駅舎のみになったが、小田急は向ケ丘遊園駅の駅舎リニューアル工事を実施し、2019年には南口にもマンサード屋根の駅舎が竣工した。現在に至っても、小田急が向ヶ丘遊園駅を重要視していることがわかるだろう。

一方、貨物の重要駅になっていた稲田多摩川駅はどうだろうか。同駅は1955年に登戸多摩川駅に改称した。しかし、多摩川を挟んで都心側には和泉多摩川駅がある。“多摩川”がつく駅が2つ並ぶと、乗客が混乱する。そうした理由から、1958年に登戸多摩川駅は国鉄の駅名と足並みを揃え、登戸駅へと再改称した。

隣の稲田登戸駅は、一足早い1955年に向ヶ丘遊園駅に改称していた。そのために、“登戸”がつく駅が連続するという事態は避けられた。

秘密研究所の誕生

ようやく登戸駅となったものの、駅名が変わっただけで駅周辺はのどかな風景のままだった。そこには、戦前期から小田急が取り組んでいた林間都市開発の影響も少なからずあった。

戦前期、小田急は林間都市の開発に傾注していた。林間都市は東京都心部から遠すぎたために、すぐに頓挫した。小田急は林間都市の開発を諦めきれず、戦後に少しばかり開発に乗り出している。林間都市にこだわるあまり、登戸駅は高度経済成長期でも大規模開発から置いてきぼりを食った。

そうした事情もあって、登戸駅界隈では昭和40年半ばに入っても地域の特産品である多摩川梨を栽培する農家が残っていた。そして、登戸駅前には多摩川梨や名産品の桃を販売する店が軒を連ねた。

農村然とした風景が残った登戸駅だが、戦前期はそれが利点として活用された。

1939年に大日本帝国陸軍が発足させた秘密の研究機関は登戸研究所と命名された。“登戸”を名乗っているが、研究所の最寄駅は東生田(現・生田)駅だった。現在、研究所は明治大学のキャンパスになっており、その一画には登戸研究所を後世に伝える平和教育登戸研究所資料館がある。

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