なぜか大開発されなかった乗換駅「登戸」発展史 かつては砂利輸送の拠点、今は緑地の街に

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小田急開通と同時にオープンした向ヶ丘遊園、そして生田緑地といった自然あふれる空間の存在も登戸駅を語るうえで無視できない。

1927年にオープンした向ヶ丘遊園は、園内のあちこちに赤松・ナラ・クヌギ・桜・カエデ・ツツジなどが植栽された。向ヶ丘遊園は自然豊かな“公園”として、無料開放された。そして、すぐに沿線内外から人を集める目玉施設になる。

1958年の開園30周年には、記念事業としてばら苑が整備された。このばら苑が、閉園まで向ヶ丘遊園のシンボルとして周辺住民や来園者に親しまれる。

向ヶ丘遊園は“花と緑の向ヶ丘遊園”をキャッチフレーズに掲げていたこともあり、園内にはバラ以外にも多くの種類の花が植栽され、観賞用の温室や庭園も整備されていた。

1976年、老朽化した新松田駅舎を保存するため園内に移築。鉄道資料館として再活用された。すでに園内で保存されていた機関車デキ1011も資料館の隣に場所を移し、鉄道少年たちを喜ばせた。

駅からのアクセスにも、鉄道会社の小田急の色が濃く反映された。向ヶ丘遊園は来園者の便を図るべく、稲田登戸駅前から7両編成の豆汽車を運行していた。戦時中の金属供出によって豆汽車はレールを失うが、終戦から5年を経た1950年に復活。このときに豆汽車は豆電車としてバージョンアップしている。

1966年には豆電車に代わって新たにモノレールの運行を開始。同モノレールは、2001年まで運行を続けた。向ヶ丘遊園は、翌年の2002年に閉園した。

緑地の広がる街として

モノレールが廃止された後、駅跡地は駐輪場に、線路跡地は遊歩道へと姿を変えた。跡地に整備された遊歩道には、小田急電鉄と刻まれた橋脚の痕跡が残る。

モノレール跡地は遊歩道として整備されているが、そこには橋脚の痕跡も残されている(筆者撮影)

向ヶ丘遊園のシンボルだったばら苑は、川崎市が管理を継承。生田緑地ばら苑と名を変え、現在も春と秋の開花シーズンに一般公開されている。

向ヶ丘遊園の跡地整備に関して、小田急は2023年度に商業施設・自然体験施設・温浴施設の3つのエリアからなる開発計画を発表。できるだけ緑地を残す方針を表明している。

隣接する生田緑地にも車両が展示されている。小田急とも南武とも関連性はないが、生田緑地内にはSLのD51やスハ42形客車が保存されており、隠れた鉄道スポットになっている。

今年5月の殺傷事件でその名が広がってしまった登戸駅だが、登戸駅のある多摩区は、“ピクニックタウン”を掲げ、自然と暮らしとが調和したまちづくりに取り組んでいる。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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