「千葉の渋谷」柏はかつて「宝塚」になりたかった 競馬場にゴルフ場、劇場…夢の跡は住宅地に

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その評判を聞きつけた吉田は、柏を「関東の宝塚」にしようと決意。農地をレジャー施設へと転換させようとする。手始めに着手したのは、競馬場の誘致だった。

当時の大日本帝国は、軍事力として馬の育成に乗り出していた。そのため、競馬はギャンブルではなく、馬の育成行為とされていた。競馬場の建設はむしろ奨励されるものであり、娯楽と両立できるコンテンツでもあった。

馬の育成場所を探していた千葉県畜産組合に、吉田は土地を提供。豊四季に柏競馬場が誕生する。競馬場の売り上げは税収にも寄与することから、行政も競馬場の開設に協力を惜しまなかった。

こうして、1周1600mという東洋一の規模を誇る柏競馬場が誕生。吉田が描いた「関東の宝塚」構想は、順調な滑り出しを見せる。

競馬場は成功したが…

競馬場の入場者は3日間で約9万人を数えた。柏町(当時)の人口は7000人だから、いかに柏競馬場が驚異的な集客力を誇っていたかを物語る数字だ。また、3日間での売り上げは14万円。それまでの柏町の年間予算は5万円。財政にも大きく貢献した。

1933年、来場者の便を図るために総武鉄道(現・東武鉄道野田線)が柏駅―豊四季駅間に新駅となる柏競馬場前駅(現在は廃止)を開設。また、競馬の開催日以外でも柏に人を呼ぶコンテンツとして、吉田はゴルフ場の整備にも乗り出した。

昭和初期、日本のゴルフ人口は多くなかった。それでも、東京近郊の農地は次々とゴルフ場へと転換された。過当競争気味になっていたゴルフ場だけに、吉田は新たなゴルフ場の整備に際してプレーをしながら競馬を観戦できることをウリにした。そのため、ゴルフコースのレイアウトや植栽計画で難航し、ゴルフ場の規模が小さくなってしまったという。

それでも、吉田はさしたる不満を抱かなかった。なぜなら、吉田は競馬場の周辺にゴルフ場のほか、テニスコートや弓道場といったスポーツ施設を充実させて総合運動公園化する計画を温めていた。「関東の宝塚」を目指す吉田にとって、劇場も必要だった。だから、ゴルフコースが小さくても構わなかった。

競馬場の成功で「関東の宝塚」は一気に実現へと向かうように思われた。しかし、ここでブレーキがかかる。その理由は判然としないが、柏の気風が開発に抑制的だったことが一因と思われる。そのため、テニスコートや弓道場、劇場は未完のまま放置された。

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