「沖縄と核」の歴史、戦後の知られざる真実 恩納村に中距離核ミサイルが配備されていた
沖縄に最初に核兵器が配備されたのは冷戦時代の1950年代半ば。アイゼンハワー政権は、戦争になれば通常兵器と同じように核兵器を使うと宣言し、ソビエトを中心とする共産主義陣営を威嚇。沖縄には極東の共産勢力に対抗する前線基地としての役割が与えられた。
しかし、敵対するソビエト陣営の核・ミサイル技術の高まりとともに、アメリカ軍内部では、沖縄の核基地が攻撃されるかもしれないという不安と恐怖が高まっていく。それは「核を防衛するための核」としてさらなる核兵器の配備をもたらした。いわば、〈核が核を呼ぶスパイラル〉が起きていたのである。
「核は沖縄へ」という流れ
また、日本本土の事情も沖縄への核集中をもたらした。本土の日本人の間で高まっていた「反核感情」を抑え込みたい日米両政府は、本土への核配備を避け、〈核は沖縄へ〉という流れを加速させたのだ。
沖縄の本土復帰においても核兵器の存在は重要な役割を果たした。1960年代の末になると、アメリカの核兵器が配備されていることは沖縄でも徐々に知られるようになり、人々は、「異民族支配からの脱却」と「核兵器の撤去」を願うようになる。
しかしその願いは、日米両政府による秘密交渉の末、「核抜き」の代償として、いわゆる「核密約」と「基地の固定」をもたらすことになった。沖縄への核集中は、最終的に、〈沖縄への基地集中〉へと転化していったのである。
そして今、沖縄は、宜野湾市にある普天間基地の名護市辺野古への移設をめぐって大きく揺れている。日本政府は、辺野古への移設は、沖縄の基地負担の軽減のためだとしているが、沖縄の人々の間では、負担の県内でのたらい回しに過ぎないとして政府の姿勢を批判する声が根強い。
そもそもなぜ、沖縄だけにこれほど基地が集中し、その負担を引き受けなければならないのか――。沖縄の人々の怒りの根底にはこの素朴な問いがある。「基地集中」、その源流をたどっていけば、核の存在が浮かび上がる。番組のプロデューサーである松木秀文氏の言葉を借りるなら、核兵器は、沖縄に基地集中をもたらす「触媒」としての役割を果たした。
逆に言えば、沖縄と核の歴史を見つめることは、基地問題に揺れる現在の沖縄の姿を捉えることにもつながるのである。
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