しかし、勘違いをして、同じことを力のない若手がやれば、落語はめちゃくちゃになってしまう。大学の落研などではしばしば見られるが、落語そのものの骨格が崩れて、単なる独りよがりになってしまう。
鯉昇がこんな「飛び道具」「入れ事」を自在に使いこなすことができるのは、古典の話芸が高いレベルで確立されていて、どんな要素をぶっこんでも破綻しないからだ。
「御神酒徳利」と言えば、6代目三遊亭圓生が、昭和天皇の御前で演じた演目。主人公が偶然から次々と幸運をつかんでいく大ネタだが、鯉昇はこの噺はほとんど「入れ事」をせず、オーソドックスに演じる。それでも上品で調子のよい鯉昇の口調に乗って、気持ちよく噺を楽しむことができる。
鯉昇と言えば「飛び道具」「入れ事」という印象が強いが、それも「上質のストーリーテラー」という前提があってのことなのだ。くすぐりひとつでも、鯉昇は計算しつくして、あたかも弓を引き絞って矢を放つように絶妙のタイミングで落とす。
「だけど外れるとすごい。息をため込むときに客席でくしゃみされたらもう終わりです(笑)。あるんです、花粉の舞う時期。まあ、それも寄席というライブの面白さではあるんですけどね」
「マクラ」から、また新しい落語が
瀧川鯉昇は最近、マクラだけで、1本の噺にならないか考えているという。
「私のマクラはみんな、実体験に基づいているんです。立川志の輔さんと何年かに一度、飲む機会がありますが、そのへんの話をすると『兄さん、体験するっていうそれ自体もすごくうらやましい』って言われる。
『志のさんみたいに能力があれば、考えたことを文章にしてそれを表現できるけど、その能力がないから体験しか語れない』と言うんですが、志のさんは『うらやましい』って言って。
私は自虐的な性格で、花見時分に大嵐になると、誰か来ていないか見に行きたくなるんです。実は同じような人がいっぱいいるんですよね。雨の中、花を見ている人に会って、なんで来たのか聞いてみようと。そういうところから、新しいマクラが生まれます」
噺家のマクラといえば、10代目柳家小三治の「ま・く・ら」が有名だが、エッセイのような味わいの小三治の「マクラ」とは一味違った、不思議な新作落語に仕上がるのではないか。
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