落語家・瀧川鯉昇がひたすら紡ぐ世界観の魅力 「伝説の師匠」仕込みの独特の噺に迫る

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浅草にて(東洋経済オンライン編集部撮影)

8代目小柳枝は、1927(昭和2)年生まれ。それほど昔の噺家ではないが、今や「幻の噺家」になっている。その唯一の弟子だった鯉昇との師弟関係も「伝説」と化している。

「師匠は銀行家の末裔で、兄は東大教授、お姉さんの旦那は南極観測船しらせの乗組員というエリート家系。乳母と女中に育てられたというお坊ちゃんだったのですが、酒癖が悪くて、たびたびしくじっては謹慎していました。入門に際しても、師匠の師匠である6代目春風亭柳橋師匠からお許しが出るまで1年半もかかりました。

師匠は別れたかみさんが建ててくれた家に、お情けで間借りしていました。正式に入門が決まって前座名の「柳若」をもらい、師匠の家に行って最初に言いつけられたのは、庭の草をむしって、それを『食べられる草』と『食べられない草』に仕分けることでした。タンポポやぺんぺん草は食べられるから右へ、その他の雑草は左へ。私は田舎育ちで、農学部出身ですから、苦にはならなかった。せめてタンポポでも食べさせてやりたい、という師匠の心遣いがうれしかったですね」

終戦直後の話ではない。すでに高度成長期を経た1975(昭和50)年の話である。

8代目小柳枝の酒癖はすさまじく、師弟は酔いつぶれて何度も新聞紙にくるまって路上で夜を明かした。小柳枝は「黒インクの5大紙(一般紙)では死ぬ。活字は寒い、写真は暖かい。カラーインクが染みこんだスポーツ新聞じゃないと命は守れない」と鯉昇(当時柳若)に教えたという。

酒癖は悪かったが、素面のときの小柳枝は几帳面で、まじめだった。落語の稽古もしてくれた。上品で丁寧な芸風だったという。

最初の師匠との別れ

しかし、小柳枝は何度も酒で失敗した揚げ句、浅草演芸ホールの上にあったストリップ劇場の楽屋で暴れて謹慎処分となり、名前も取り上げられ春風亭扇昇となる。寄席に復帰後も乱行は収まらず、ついに廃業して寺に入ることとなった。

べろべろで稽古をつけてくれました(東洋経済オンライン編集部撮影)

「廃業するって決まってからは、ほとんど毎晩、稽古をつけてくれました。ただし素面じゃない。私が、昼席を終わるまでそのへんで待っていてくれましてね。アメ横でイワシを一山80円か何かで30匹くらいあるのを買って『これ、あとで稽古が終わったら焼いて食うか』って言って。

『あ、ちょっと、ちょっと、待って。ええと、そこのガード下でそば焼酎1杯ずつやるか』って言って。揚げ句にベロベロになって。でも、録音する機械をもってこいって言うので、それで、ベロベロで稽古してくれて。翌日行くと夕べのイワシが目真っ赤にしたのが30匹腐っていて(笑)」

その口吻から、鯉昇がこの破天荒な師匠を深く愛していることがにじみ出る。酒癖が悪く、生活は破綻していたが、人品は卑しからず、芸には純粋な師匠だったのだ。

8代目春風亭小柳枝は寺に入り、その後、植木職人など職を転々としたのちに、2002年3月5日、75歳で亡くなっている。

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