日本人男性が「ブルーマン」を成功に導いたワケ 単身渡米、親からも借金をして資金を集めた

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肌を真っ青にペイントした男性3人が繰り広げる、音楽・アート・コメディが融合する音楽パフォーマンスショー「ブルーマン」。写真は「Blue Man Group: Tubes」の舞台写真より(撮影:Junichi Takahashi)

日本を飛び出し、世界で夢をかなえている人たちがいる。しかし、そんな彼らも最初はみなゼロからのスタートだった。では、何が彼らをサクセスに導いたのか。

今回お話を伺ったのは、3500万人が熱狂し、世界中でロングランヒットを巻き起こしているショー『ブルーマン・グループ』を世に送り出したオリジナル・プロデューサーである出口最一(まこと)さんだ。

ブルーマンといえば、肌を真っ青にペイントした男性3人が繰り広げる、音楽・アート・コメディが融合する音楽パフォーマンスショーで、今や世界公演で18カ国38都市を巡り、国や文化を超えてあらゆる人々を魅了し続けている。しかし、そのブルーマンも初めの頃は、小さなキャバレーでパフォーマンスを続ける無名のアーティスト・グループだった。

そんな彼らを発掘し、世界的ヒット作にまで育て上げた日本人プロデューサーの出口さんに、これまでの軌跡を伺った。

27歳の時、NYへ単身渡米した理由

出口さんが初めてミュージカルと出会ったのは、高校1年生の時。テレビで『サウンド・オブ・ミュージック』を見て衝撃を受け、役者を志すようになった。

大学卒業後は、安定した仕事を勧める親や大学教授に反対されながらも、役者の道へ進み、劇団四季に入団。子どもの頃からの夢である俳優という仕事を勝ち取ったものの、次第に「本場のブロードウェイで挑戦したい!」という思いが募っていったという。

「劇団四季で上演していたキャッツにしても、コーラスラインにしても、すべてブロードウェイで作られた作品。僕たち役者は、その完成した作品を日本語で演じていただけだったんですよね。だから早く本場のニューヨークに行って、作品を生み出すところから学びたいと思うようになりました」

また出口さんにはこんな夢もあった。

「当時1980年代は、ソニーやパナソニック、トヨタやホンダなど日本企業が世界に飛び出していった頃。そんなグローバルに活躍できる時代になったにもかかわらず、僕がいるエンターテインメント業界は、産業としてまだまだ世界に進出していなかったんです。だからこそ、早く海外に出て、産業として引っ張っていける人材になりたいという思いもありました」

そして、ニューヨークにある劇団に何度も手紙を書いて交渉の末、入団する劇団も決まり、27歳の時に渡米した。

初めて訪れたニューヨークは、今とは違い犯罪も多く、街にはドラッグディーラーや娼婦があふれていた。

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