日本人男性が「ブルーマン」を成功に導いたワケ 単身渡米、親からも借金をして資金を集めた

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「でも僕は芝居を作るために来たので、あまり気になりませんでしたね。ニューヨークにはテレビや舞台に出ている俳優さんがたくさんいて、そんな人たちと一緒に芝居を作れることが楽しくて、毎日充実していました」と出口さんは当時を振り返った。

演出家の雑用係から始まり、舞台装置を運んだり、音響や照明を担当したり、台本が書き変わるたびに印刷し直したりと、頼まれたことは何でも嫌がらずにやった。その仕事ぶりが評価され、次第に舞台のスケジュール管理から、衣装の発注、舞台監督や演出家とのやりとりなど、劇団のマネジメントも任されるようになっていった。

「あの頃は必死でした。毎週演目が変わるので、台本を4つ抱えているんですよ。1つ目は今上演している用の台本。2つ目はリハーサルが進んでいる用、3つ目はその次のリハーサル用、4つ目は、その次に始まるであろう台本。それらを全部読み込んでいないと、的確な指示を出すことができない。だから睡眠時間も毎日3~4時間あればいいほうで、劇団の控え室で寝ている日も多かったですよ。若かったからこそできたんでしょうね」と出口さんは笑った。

「その頃はつらいという感情より、とにかく学びたいという思いが強かったから、乾いたスポンジがぐんぐん水を吸収するように、いろんなことを学ぶことができた。今思い返しても、夢のように楽しかった瞬間ですね」

ブルーマンとの運命の出会い

しかし、物価の高いニューヨークで生きていくのは決して楽ではなかった。日本で貯めた貯金も少しずつ減っていき、日本に帰ることも考えたという。

そんな時に、出口さんの運命を変える出来事があった。それがブルーマンとの出会いだった。

「小さなキャバレーで、ブルーマンのパフォーマンスを初めて見た時の衝撃は、今でも覚えています。あの頃はもっと地味な演出でしたが、僕からみたら、彼らのショーはアートだったんです。すごい才能のある人たちだと思いました」

ブルーマンの終演直後に舞台上で、オリジナルのブルーマンの出演者らと出口さん(写真:出口さん提供)

ショーが終わるとすぐに楽屋へ行き、出口さんは名刺を渡した。「ぜひ君たちの日本ツアーを企画させてほしい!」と。すると3日後に連絡があり、彼らと打ち合わせをすることになった。

当時は、日本にバブルの波が来ていた時期。そんなこともあり、スポンサーがつけば日本でのツアーも実現できるかもしれないと考えていた。しかし、打ち合わせをしていく中で、3人のブルーマンの1人が、「日本にツアーに行くのもいいけれど、ニューヨークで看板を掲げて自分たちのショーをやりたい」と言った。

「それを聞いて僕は思わず、『Yes you can!』って言っちゃったんですよね。僕がプロデューサーになって、君たちのショーを実現するよと。言った瞬間は、それを実現できるだけの資金も経験値もなかったのに」

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