欧米人が天皇を"キング"とは呼ばない深い理由

世界で残るたった一人の「エンペラー」の謎

ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということ、さらにその歴史的な経緯をよく理解したうえで、天皇を「皇帝」としました。

1716年にケンペルは死去します。その後、『日本誌』の遺稿はイギリスの収集家に売られ、1727年、その価値が認められて、『The History of Japan』というタイトルで英語訳で出版されます。この本は話題となり、フランス語、オランダ語にも翻訳出版され、ヨーロッパ中で大ヒット・ベストセラーとなりました。18世紀後半、ドゥニ・ディドロが『百科全書』を編纂(へんさん)した際、日本関連の情報のほとんどを『日本誌』に典拠したことが知られています。

ケンペルの『日本誌』が普及したことで、日本の天皇および将軍が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで完全に定着しました。

こうした背景から、1853年、ペリーが黒船を率いてやって来たとき、天皇と将軍をともに「emperor(皇帝)」と呼んだのです。ペリーのみならず、日本にやって来た欧米各国の学者や外交官たちも天皇と将軍を「皇帝」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録しています。

また、ケンペルは『日本誌』の中で、天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明しています。ケンペルは、皇統の「万世一系」が日本で重んじられていることに言及したのです。

宣教師たちは天皇をどのように呼んだのか?

では、戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは天皇をどのように呼んでいたのでしょうか。

フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、その存在を三人称的な「彼」と表記しています。トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられています。

織田信長と親交のあったルイス・フロイスは天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現しています。「Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示します。

「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化しました。「天皇」は中国などの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのです。明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させていきます。

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