我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる

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このように学習指導要領に列挙される徳目を見ると、個人の尊厳や自由の価値についてほとんど触れられていない。また、地球規模の課題に国境を越えて取り組もうとする姿勢、すなわち地球市民意識のようなものもまったく現れていない。私はこれを「個と地球の欠如」と呼んでいる。

重視されているのは「我慢する」「わがままを言わない」「自己抑制・自己犠牲を厭わない」「国を愛する」「日本人としての自覚を持つ」「法やきまりを守る」「父母、祖父母、祖先を敬う」といった徳目ばかりである。

個人や自由の価値には触れず、自己抑制や自己犠牲を美化し、国家や全体への奉仕を強調する道徳は、国家主義、全体主義へと子どもたちの精神を追い込むものになるだろう。

こうして見ると、学習指導要領道徳編はすでにかなり教育勅語に近いものになっており、教育勅語に代わる国民道徳を定めるものとして機能していることがわかる。

自己抑制は「恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持シ」、自己犠牲と国家への奉仕は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」に表されている。父母、祖父母への敬愛は「父母ニ孝ニ」、教育勅語の重要な柱である「孝」を意味するものだ。自分の命につながる祖先を敬うことは「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スル」という徳目として勅語に記されている。

しかし、教育勅語を復活させようとする立場から見れば、現在の学習指導要領には1つ重要な徳目が抜けている。それは「忠」、すなわち天皇に対する敬愛である。

道徳の教科化はやっぱり問題がある

実は「天皇への敬愛」はすでに学習指導要領に書かれている。だが、それは道徳ではなく社会科の中でだ。

小学校学習指導要領では、第6学年の社会科で憲法について学ぶことになっているが、その「内容」として「国民としての権利及び義務」などと並んで「天皇の地位」が特記されており、その「内容の取扱い」として「歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」とされているのである。

日本国憲法第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定めているが、この条文からは国民が「天皇への敬愛の念」を持てという規範は導かれない。

だから、そもそもこのような記述が、学校における教育課程の基準として国が定める学習指導要領に存在すること自体がおかしいのだが、社会科の中で記述される限りは、憲法学習の一環としての学習に留まる。

ところが、これを道徳の中に記述するとなると、話はまったく別である。

私は、日本会議のような戦前回帰を志向する勢力がさらに力を持つようになると、道徳の学習指導要領に「天皇に対する敬愛の念を深めよ」という徳目を加えよという声が高まるだろうと思う。その際には、「すでに社会科に記述されているのだから、それを道徳科に移すだけのことであって、何ら問題はない」という理屈が用いられるだろう。

道徳は社会科と異なり、子どもたちの思想・良心の自由に直接関わる。天皇を敬愛するか否か、天皇制を望ましいと考えるか否かは、専ら個人の内心の自由に属することである。日本国憲法第1条について学ぶということとは、本質的に次元が異なる。

天皇を敬愛すべきかどうかを児童生徒が議論すれば良い、という論は確かに成り立つが、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。

しかし、そのような授業ができる教師がどれだけ存在するだろうか。

前川 喜平 現代教育行政研究会代表、元文部科学事務次官

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まえかわ きへい / Kihei Maekawa

東京大学法学部卒業後、旧文部省入省。初等中等教育局長などを経て2016年事務次官。2017年1月、天下り斡旋問題で辞任。現在、全国各地で講演しながら、「教育政策をめぐる現代的諸課題」をテーマに日本大学文理学部で講義するほか、夜間中学での指導にも当たる。

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