我慢と自己犠牲を美化する教育勅語のヤバさ 教育勅語が復活すれば子どもが追い込まれる
教育出版などいくつかの教科書では、子どもたちに個々の徳目に沿った自己評価をさせている。この「自己評価」も外在的な価値を子どもたちが「内面化」する効果的な手段になるだろう。
「絶対的な価値」を「内面化」した子どもは、その価値観を他者にも押し付けるようになるに違いない。そのような子どもが多数を占めるに至ったとき、その価値観に納得できない少数者は否定され、排除され、敵視される危険にさらされるだろう。
「考え、議論する道徳」がこのような考えの下に行われた場合、それは徳目の注入方法として単なる「刷り込み」以上に強力な方法になる。それよりはまだ個々の徳目を「教師が抱く正解」として認知する「いい子」になるほうがましである。
また、貝塚氏の論に拠れば、「道徳の上にさまざまな学問・科学が乗っている」のだという。道徳を基盤にして哲学、政治、経済、科学、文学などが成り立つというのだ。これは国語、理科、社会などすべての教科が道徳を基にして教えられなければならないということであり、修身科を「筆頭の教科」と位置付けていた戦前の教育課程の考え方を復活させるものだと評価できよう。
徳目の教化が全教育課程を覆い尽くすというのだ。歴史教育は愛国心教育の上に行わなければならないということになる。これでは科学的思考や批判的精神はまったく育てられないだろう。
血統を重んじる姿勢が強まっている
道徳の教科書は、一つひとつの徳目を教化する内容になっているが、それは学習指導要領が徳目を列挙するものになっているからだ。
道徳の内容項目(徳目)は、小学校1・2年で19個、3・4年で20個、5・6年で22個、中学校で22個となっている。学習指導要領は、これらの「各学年段階の内容項目について、相当する各学年において全て取り上げることとする」ことを求めており、各検定教科書もこれらの徳目を一つひとつ追う形式になっている。
学習指導要領がこのような「徳目主義」の構成をとっているのは、1958年に道徳の時間が創設されて以来のことであり、歴代保守政権の道徳観を反映しているものだと言える。
道徳の学習指導要領においては、「個人の尊厳」や個人の「自由」「権利」の扱いが極めて小さいのに対し、「家族」「学校」「郷土」「国」という集団への帰属意識や「節度」「礼儀」「規則」「公共の精神」「国を愛する心」など、集団を維持するための規範はずらりと並べられている。
国への帰属意識については、「我が国や郷土の伝統と文化を大切にし、先人の努力を知り、国や郷土を愛する心を持つこと」「他国の人々や文化について理解し、日本人としての自覚を持って国際親善に努めること」と記述されている(小学校5・6年)。
法を守ることについては、「法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り、自他の権利を大切にし、義務を果たすこと」とされている。1958年版では「自分たちで作るきまりの意義を理解し、進んでこれを守る」とされていたのだが、現在は「自分たちで作る」という文言が消え、子どもたちはきまりを作る主体ではなく、きまりを守らされるだけの客体となってしまっている。
「家族」については、1958年版では「家族の人々を敬愛し、よい家庭を作りあげようとする」となっていたが、2015年版では「父母、祖父母を敬愛し、家族の幸せを求めて、進んで役に立つことをすること」と記述が変わっている。「敬愛」の対象が「家族」から「父母、祖父母」に絞られ、直系尊属という縦の血統を重視する姿勢が強まっている。
さらに「生命の尊さ」という徳目の中でも「祖先から祖父母、父母、そして自分、さらに、自分から子供、孫へと受けつがれていく生命のつながり」に言及しており、縦の血統を重んじる道徳観が打ち出されている。
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