京王と小田急、地形断面図でみる車窓の特徴

起点は同じ新宿でも「平坦」と「山あり谷あり」

小田急では、梅ヶ丘駅が「丘」ではなく低地に立地しているのも印象的だ。丘は川より高い所にあるはずなのに、下北沢という川(沢)の名の駅より、梅ヶ丘駅はずっと低い所にある。

こうした矛盾ともいえる駅名は何も小田急線に限ったことではなく、東急が自由が丘駅を命名して以来、首都圏私鉄の多くで伝統的に行われている。自由が丘は昭和4(1929)年に九品仏から駅名変更した(変更当初は自由ヶ丘)もので、同駅も谷にあり現在も川の跡(暗渠)がホーム下を横切っている。

駅の周囲は丘で、そうした丘に住む人たちが利用する駅といった形なので、駅名に丘が付いていても意外と違和感を持たない。梅ヶ丘も同様の立地である。

違いはなぜ生まれた?

片や平坦、片やアップダウンが激しいという京王と小田急の違いはどうして起きたのだろうか。

解明するキーワードは、大正初期生まれ(開業)と昭和ヒトケタ生まれとの違いにある。歴史的背景が異なっているのである。

京王線が並行する甲州街道は、ご存じのように江戸時代の五街道のひとつ。京王線沿線では、新宿、高井戸、布田五宿(調布)、府中、八王子が宿場となっていた。

京王線(当時は京王電気軌道という名だった)は大正2(1913)年4月に笹塚―調布間が開業する。大正5(1916)年までに新宿(新宿追分)―府中間へと延伸している。

当時はまだ東京郊外に人家は少なく、京王線は甲州街道を往来する人々を乗客に見込んで敷かれた。同じような路線に、東海道を往来する人を乗客に見込んで敷設された京急がある。こちらは京王線より古く明治38(1905)年までに品川(現・北品川)―神奈川(現・横浜駅付近)が開業している。

甲州街道は四ツ谷―新宿―下高井戸―上北沢までの間、武蔵野台地に馬の背骨のように存在する尾根筋を通っている。尾根筋に道を造れば、アップダウンが少なく、造るのに手間がかからない。往来も楽である。江戸幕府はその場所を見極めて街道として整備したわけである。

京王電気軌道は、江戸幕府に倣うようにして、谷もなく、しかも街道沿いで人家が多い恰好の場所を選んで開業させた。

大正12(1923)年関東大震災が起き、東京の東側、下町一帯は焼け野原になった。多くの被災者は東京の西側郊外へと移り住んだ。そうした新住人も見込んで昭和2(1927)年、小田急が新宿―小田原間、一挙に全線開業する。郊外と都心を結ぶことが目的なので、途中に人家が少なかったり丘や谷があったりしても、大して意にかけない形でルート選定を行っている。

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