アメリカでとてつもない格差が生まれた本質 現代の経済学をとことん考え尽くしてみる
しかし、マクロ経済学の教科書では「貨幣は物々交換から出てきました」といった具合で説明されるし、経済学者はそういう説明しか与えてきませんでしたが、それでは貨幣と人間の関係は理解できないことは明らかになってきました。
「人間科学」としての経済学へ
中谷:そうだとすると、これから経済学を学ぼうとする人は、今までの前提や理論といったものはいったん脇において、「人間とは何か」という地点からスタートしたほうがいいのでしょうか。
瀧澤:なかなか答えにくいですが、私が勤めている大学も含めて、毎年1000人近くの人を入学させている経済学部がいくつもありますね。その人たちに今までの経済学を押し付けて4年間勉強させることはいいことだとは思えないのです。
中谷:現実には、経済学の教員は昔の経済学を学んでいた人が多いので、旧態依然のカリキュラムが中心になってしまっていますよね。
瀧澤:そうだと思います。でも、世の中に出回っている本をみても、経済学は新古典派経済学やケインズ経済学だけではないことがわかります。もちろん、今までの経済学の教育の中身を大きく変えることはできないとしても、学生たちが経済学だけでなく人類学を組み合わせて学べるような仕組みづくりにチャレンジしていかないと、複雑な世の中には対応できなくなるのではないでしょうか。
中谷:今まで体系だって教えてきたことを教えなくていいということではないけれども、それだけではなく、経済学を相対化して見られるような勉強が必要だということですね。
瀧澤:かなり昔から、そうしたほうがいいと思っていました。経済学者はモデルで結論が出ると、現実もそうなるように思ってしまうところがあります。でもそれはちょっと単純すぎる。
ミクロ経済学やマクロ経済学は、ある仮定にもとづいたフィクションですから、あたかもそれを真であるかのように語ることは望ましくありません。常に経済学を相対化して考えられるように、たとえば政策論で経済政策が実際にどのようにつくられているのかといった現実を見る目も養わなければならないと思います。
現状は、むしろ企業人のほうが、書店で行動経済学や経済史の本を目にしていると思うので、経済学が変わりつつあるという実感を持っているかもしれません。
中谷:経済学が多様化していることを周知するには、一世代ぐらいはかかると思います。ミクロ経済学、マクロ経済学にとらわれない経済学を学んだ研究者が教壇に立つことで、ちょっとずつ、従来の経済学像を払拭していく必要があるのでしょうね。
(構成:斎藤 哲也)
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