池袋・錦糸町に逆転された「大塚・両国」の反撃 繁栄から衰退、だが復活の兆しが見えてきた
もともと、山手線の目白―田端間は田端駅方面から線路をまっすぐ目白方面に延ばして建設する予定だった。予定どおりなら、山手線は目白駅と大塚駅が直線で結ばれる形になり、池袋は通らない。もちろん、池袋駅が開設されるはずがない。
ところが、予定どおりに線路を延ばしていくと巣鴨監獄に突き当たる。明治新政府は西洋列強と肩を並べるために近代化を急いでおり、その一端として刑務所を整備した。刑務所の整備は、国家が人権を尊重していると内外に示す施設だった。
日本は開国時に西欧諸国と不平等条約を締結させられており、その改正が政府の悲願だった。西洋諸国からは「人権を尊重する国家ができなければ、条約は改正できない」と繰り返し拒否されており、落成したばかりで、しかも近代国家で人権を尊重することを西洋諸国にアピールするためにも、明治新政府にとって巣鴨監獄は取り壊せるはずがなかった。
迂回ルートのために設置が決まった池袋駅
こうして、鉄道当局は監獄を迂回するルートに計画を変更せざるをえなくなり、大塚付近からは線路は北へ曲げられる。そして、大塚―目白の間に池袋駅が設置されることも決められる。運を味方にした池袋駅は、大塚駅と同時の1903年に開業した。
戦前期までの大塚駅には、都電16系統と32系統の2つが走っていた。そのうち32系統は、王子電気軌道が1911年という早い時期に部分開業させた路線だった。
王子電気軌道は路線計画時に池袋駅を通るルートで建設することもできたが、大塚駅を選んだ。つまり、王子電気軌道は大塚駅のほうが利用者を取り込めると判断していたことになる。
実際、大塚駅の南口には大正期より三業地(芸妓屋や遊女屋が集積する地域)が形成され、北口は老舗百貨店の白木屋が1937年に分店を構えるほど栄えた。
繁栄する大塚駅を横目に、山手線の駅が開設された池袋駅の発展は遅々として進まなかった。池袋駅が発展を始めるのは戦後になってからだ。
1954年には、銀座線に次ぐ東京2番目の地下鉄となる丸ノ内線が池袋駅―御茶ノ水駅間で部分開業。地下鉄が開業して交通の便が飛躍的に向上したことに加え、高度経済成長という時代の追い風も池袋駅に味方した。
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