西日暮里と成増、共通点は「沿線開発で挫折」 高級住宅街や行楽地が生まれるはずだった…

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大財閥である岩崎・渡辺の資金力なくして、これら膨大な写真を撮り歩くことは不可能だった。それほどの大財閥だった渡辺財閥であるから、西日暮里の広大な地に王国を築くという10代目・治右衛門の野望は決して大げさなものではなかった。

10代目・治右衛門は、時代を先取りして同地に上下水道や電気施設といったインフラを整備。また、幼稚園も開園。当時、富裕層の間では子弟に早期教育を施すことがステータスとされていたために、幼稚園は富裕層の住宅地には欠かせないものとされた。

10代目・治右衛門が切り開いた街は、いつの頃からか日暮里渡辺町と呼ばれるようになる。そして、1932年に一帯は荒川区に編入されて、荒川区日暮里渡辺町と正式な町名になった。しかし、1934には日暮里9丁目に改称されてしまう。日暮里渡辺町は、わずかな歳月で地名から抹消された。

アートでオシャレな街でもあった渡辺町

町名としては消え去っても、住民たちは長らく一帯を渡辺町と呼び続けてきた。渡辺町は上野の東京藝術大学から近いこともあり、画家や彫刻家といった芸術家・美術家が多数住む、アートでオシャレな街でもあった。

この時代、まだ国鉄はなく、鉄道省が運行する近距離電車線は省線と呼ばれていた。渡辺町の住民たちが鉄道を利用する場合、省線なら田端駅か日暮里駅を使った。まだ西日暮里駅はなく、高崎線・宇都宮線が日暮里駅に停車していた時代だ。

そして、1934年に京成電気軌道が道灌山通駅を開設。しかし、道灌山通駅は1943年に休止扱いになり、以降は利用されずに廃止された。

渡辺町は、決して交通アクセスに恵まれているわけではなかった。その渡辺町の交通アクセスが改善されるのは、1969年に営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業してからだ。

2年後には、国鉄(現・JR東日本)も西日暮里駅を開設。また、2008年には東京都交通局(都営)の日暮里・舎人ライナーが駅を設置した。

三井・三菱をしのぐほど強大な権勢を誇った渡辺財閥が、今や見る影もない。渡辺財閥が歴史の舞台から退場させられた原因は、昭和金融恐慌だった。

恐慌に社会が揺れるころ、ときの大蔵大臣・片岡直温は国会で「東京渡辺銀行がとうとう破綻をいたしました」答弁。これが、パニックを拡大させた。

実際の東京渡辺銀行は破綻していなかったが、片岡の答弁を聞いた市民たちが一斉に銀行に押し寄せた。取り付け騒ぎによって、東京渡辺銀行は本当に閉鎖に追い込まれる。

財閥の稼ぎ頭だった銀行が閉鎖したことにより、渡辺財閥も1929年に破綻。つまり、渡辺町が正式に町名となったときには、すでに渡辺町は主を失っていた。それが、渡辺町を短命に終わらせた理由でもある。

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