「貧困は自己責任」と断じる人の浅すぎる思慮 困難を抱える背景は1つでなく複数の事情だ

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この「生活保護があるじゃないか」というフレーズにも表れているが、「子どもの貧困」を考える際の問題は、「貧困」という言葉から連想するイメージが人によって異なるということだ。そのためインターネット上などで、

「雨風をしのげる家があれば、貧困ではない」

「終戦直後の方が、食べ物も着るものもなく厳しい生活だった。あのころにくらべたら、いまの子どもたちは貧困ではない」

というような“貧困バッシング”が起こってしまうわけである。

「自己責任発言=思考停止」なのではないだろうか

しかも、「貧しいのは、頑張らない自分の責任だ」という自己責任論がいまだ根強く残っていることも問題だと著者は指摘する。

インターネット上には、「子どもが貧困になるのは、子どもも親も努力しないため」という書き込みがあふれている。
「家計が苦しいのは、親が給料の安い仕事にしか就けなかったから」
「母子家庭になったのは、我慢が足りず、離婚したから」
こういう努力の足りない家庭を税金で支援する必要はない、というのがネット上の「自己責任論」だ。確かに、本人にも責任があるケースがないとは言えない。しかし、こうした自己責任論がことあるたびに繰り返されることで、追い詰められてしまう人がいる――そう思うと、報道機関にいる私たちは悔しく、もどかしくて仕方がない。(156〜157ページより)

仕方がないことなのかもしれないが、それでもイメージだけでものごとを断定する人々の罪は大きい。本書を読んでいると、そういう人たちの心ない言動が「働かなければ学べないから懸命に働いている」子、あるいはその親の足を引っ張っていると感じずにはいられない。

先に触れた「なにが貧困だ。スマホを持っているじゃないか」という意見がそのいい例だ。事実、著者も「相対的貧困の実態を伝える際に、インターネットなどで決まって批判の的になるのが、スマートフォンだ」と主張している。貧困家庭の子どもがスマートフォンを持っていると、

「スマホなんて贅沢だ」

「スマホを持っているなら貧困ではない」

というような批判が出るというわけだ。しかし、スマホを持っているから貧困ではないなどという単純な問題ではなく、「スマホがないと生活が成り立たない」という現実があるのだ。たとえば次に紹介するのは、母親、弟、妹と暮らす高校生の話である。

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