おごるなヤマト、小倉昌男が嘆いている なぜ名経営者はあのときリストラをしたのか
注目すべきは人員削減だ。ヤマト運輸(当時は大和運輸)の従業員数は、同社の資料によると、1973年に約6500人。だが、1974年に一気に5481人へと、1000人以上も大幅減。1973年10月に勃発した第4次中東戦争が引き金になり、翌年にはオイルショックが日本を見舞った。それでも時代背景を考えると、1000人以上の削減は並大抵の決断ではできず、相当の覚悟を要したものと思われる。それから1976年2月には「宅急便」の名称で小口貨物配送サービスを開始した。
その後、宅急便の取扱個数は急激に増え、収益性も上がった。1978年には、三越の宅配は取扱個数が約450万個で、1個当たり平均単価は約180円だった。それに対して、宅急便の取扱個数は約1000万個で、平均単価は約900円。三越の年間宅配個数の約25%を大和運輸が取り扱っていたが、年間の売上高にすると8億円強に過ぎず、反面、宅急便はすでに1000万個を超え、年間売上額は約90億円にもなっていた。
つまり、リストラを断行し、宅急便の成長を確信していた小倉氏からすれば、三越からの撤退は十分”勝てる喧嘩”だったのである。
実はヤマトが三越から撤退する前年には、ダイエーや松下電器産業(現パナソニック)からも撤退していた。三越撤退はこの路線上にある。ただ、三越からの撤退が2社より遅かったのは、先代社長で父である康臣氏の、三越への心情に配慮したからではないかと思われる。そこで、1979年1月15日に康臣氏が逝去すると、翌2月末をもって撤退した。
小倉氏と都築氏、補い合った2人の関係
大口の不採算分野から撤退、将来性の見込める分野に経営資源を集中した手法は、まさに小倉氏の先見性と実行力を証明している。同時に小倉氏からすれば、先代の康臣氏とこれまでの経営体質からの離脱宣言として、三越撤退は象徴的な位置付けでもあったのではないか。
1974年にリストラ(大幅人員削減)→1976年に新規事業(宅急便)参入→1978年から1979年にかけて不採算部門から撤退――。その後、小倉氏はコアビジネスである宅急便に傾注し、同時に、その阻害要因となる規制つまり国とも戦っていった。これら一連の動きは、言葉本来の意味でのリストラクチャリング(再構築)であり、ヤマトの旧来のビジネスモデルを激変させた第二創業でもあるのだ。
よく小倉氏の功績をみると、許認可を巡り、行政と喧嘩した気骨の経営者、規制緩和の先駆者などと称えられている。しかし、小倉氏が経営者として優れているのは、多くの大企業の経営者がバブル崩壊後の1990年代から必死で取り組んでいたリストラの典型的見本ともいうべき内容を、それよりも約20年前に行っていた点にある。
運輸省(現・国土交通省)との規制を巡るやり取りでも、小倉氏にとっては「規制緩和」という認識は薄かったのではないかと思われる。自社のコアビジネスを発展させていくに当たって、障害物を取り除く戦いであり、結果的に許認可などの規制と衝突したに過ぎない。
それでも、運輸省にとっては厄介な問題を突きつけられたことになり、感情的にも愉快ではない。それを陰で上手にフォローしていたのが、当時専務だった都筑幹彦氏(現ヤマト運輸社友会会長)だった。晩年、小倉氏と都築氏は、シックリいかない面もあったようだが、トップとナンバー2のコンビネーションも企業発展の要素だと感じた。
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