おごるなヤマト、小倉昌男が嘆いている なぜ名経営者はあのときリストラをしたのか

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ヤマト運輸を有数の優良企業に育てた、故・小倉昌男氏。国の敷いた規制に抵抗する象徴にもなった(写真:共同通信)

あの小倉昌男氏が今のヤマトを目にしたなら、どんな思いでいるだろうか――。

ヤマトホールディングスの子会社であるヤマトホームコンビニエンスが法人顧客に引越代金を”過大請求”していた問題。7月24日の記者会見では山内雅喜社長が謝罪に追われ、子会社本社も8月9日に国土交通省から立ち入り検査を受けた。何より、昨今の宅配における過剰な繁忙ぶりと、問答無用とも言える顧客への価格転嫁でも話題をまいたように、ヤマトに対しては世間からの注目度が高い。いまや社会的インフラともいえる、宅配業界のパイオニア企業だ。

そうしたヤマトグループの現状を見ながら、「もし小倉氏が存命だったら」と考えた。そこで筆者としては、同氏への取材メモを再整理して、強く心に残っていることをまとめてみよう、と思ったのである。小倉氏への単独取材の回数は、実際それほど多くなかったが、いずれも印象深い内容だった。そこから小倉氏が本来目指していた、「クロネコヤマト」の原点が見えてくるような気がする。

大口先の三越と取引をやめた背景

ヤマト運輸の元社長、小倉氏が逝去したのは、2005年6月30日のことだった。現在でも同氏についてはさまざまな評価がある。が、筆者の取材メモからは、それらと少し異なった経営者像が見えてくる。

1971年に社長に就任した小倉氏にとって、最大の決断のときはいつだったのか? 一般的には1979年、創業以来の取引先だった三越から撤退したときだったと評されている。もちろん三越からの撤退は、ニュースバリューとしては大きい。その時点ではすでに小売業の売上高1位の座はダイエーに奪われていたとはいえ、企業規模やステータス、ネームバリューなどあらゆる面から見て、三越はなお小売業の王様だったからだ。だが、実際にはそれより5年前、1974年だったのではないかと推察される。

1987年の冬から翌年秋にかけて、筆者は当時、フリーの物流ジャーナリストだった大槻憲昭氏と一緒にいくつかの取材を試みた。その中に、経営者・小倉氏にとって最大の決断は何だったか、というのがある。これは大槻氏の分析にも負うところが大きいが、結論としては、1974年の「リストラ」だったということになった。

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