「八ッ橋」訴訟、なぜ業界各社は沈黙するのか 井筒vs.聖護院、内容次第ではルーツも揺らぐ
一方、前出の辻ミチ子氏の著書は2005年の発行だが、井筒、もしくは聖護院からの聞き書きではなく、「京都に生まれ育った、自分が知っていることを記載した」(辻氏)もので、為治氏の父・松太郎氏に関する記載がある。
いわく、幕末の時代に、聖護院村の庄屋西村家の分家に生まれた松太郎氏が、「えびすや」という菓子屋を開業。後に京都府の役人である西尾為忠氏と親しくなり、西尾姓を名乗るようになったという。だが、「えびすや」が、為治氏が「玄鶴軒」の屋号で経営していた店とイコールなのかどうかは定かではない。
辻氏は為治氏の子供たちのことも記しており、長男為一氏が西尾社を、次男為忠氏は「八ッ橋西尾為忠商店」(為忠社)、三男の源太郎氏は西村姓で、本家八ッ橋(以下、西村社)を構えたとしている。
それでは為治氏の子供たちの店はいま、それぞれ自らの起源をどう説明しているのか。各社のHPによれば、西尾社は元禄2年(1689年)創業で創業の地は熊野神社境内の茶店、創業者は「為治の祖先」。実名の記載はない。
為治氏のルーツ次第では業界に激震
西村社は創業年も創業地も西尾社と同一だが、創業者については実名記載があり、その名は「西村彦左衛門」だという。為忠社はHPがなく起源に関する主張は確認できなかった。
為治氏の正統性に関する資料を、現在の聖護院は、そして西尾家、西村家はどの程度持っているのか。そして西尾家、西村家の間でルーツに関する主張の対立はないのか。
疑問は尽きないが、残念ながら、西尾家も西村家も筆者の取材に対し沈黙を守っている。
井筒が訴訟対象にしたのはあくまで聖護院であって、西尾社や西村社を標的にする意思はないのだろう。だが、西尾為治氏のルーツの正統性が焦点となれば、西尾社、西村社までもが、起源についての信憑性が問われることになりかねない。
井筒はパンドラの箱を開けたのかもしれない。
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