「八ッ橋」訴訟、なぜ業界各社は沈黙するのか 井筒vs.聖護院、内容次第ではルーツも揺らぐ

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井筒が自らの主張の補強に使っているのが、1969年(昭和44年)10月にほかならぬ聖護院自身が発行、同業他社に配ったとされる『弊社の生い立ちについて同業各位に訴える』(以下、『聖護院文書』)と題した冊子。この中で、創業時期は不明とされている点に着目している。

この冊子は1969年に、京都府が創業100年以上の老舗事業者を表彰した際、聖護院ではなく、西尾社を最古の八ッ橋業者として表彰したことへの不満を同業他社に訴えたもの。

聖護院八ツ橋の本店(編集部撮影)

聖護院は、「玄鶴軒」の屋号で八ッ橋の製造販売事業を営んでいた西尾為治氏によって、1926年(大正15年)4月に屋号、登録商標、営業権、売掛債権、製造設備、営業用の不動産など事業にかかわる一切を現物出資して設立され、発行済み株式総数の94.5%を為治氏が握った。

だが、「企業手腕は、遺憾ながら拙劣そのものにて」(『聖護院文書』)、会社設立から数カ月で減資を余儀なくされるなど経営危機に陥り、西尾為治氏個人として1930年(昭和5年)に破産が確定。当時の商法の規定に従って聖護院の取締役としての地位を失った。

代わって経営権を握ったのが、同社の専務だった鈴鹿太郎氏。現聖護院代表・鈴鹿且久氏の祖父である。

この『聖護院文書』に記載はないが、西尾為治氏が所有していた聖護院の株式は破産財団に組み込まれ、鈴鹿太郎氏が取得したのだろう。

一方、西尾為治氏が事業にかかるすべてを会社に現物出資していたことからすると、西尾家は為治氏の個人破産によってすべてを失ったはずだ。為治氏の長男・為一氏も会社に残留できなかったため、西尾家に同情する同業他社もあった。井筒の当時の5代目当主・津田佐兵衛氏もその1人だったらしい。

本家西尾八ッ橋、創業の経緯

その後、1947年(昭和22年)に西尾為治氏の長男・為一氏が個人で八ッ橋の製造販売を開始、5年後に本家八ッ橋聖護院西尾(=西尾社)の社名で法人化。だが、「創業二百六十余年」「本家八ッ橋」といった文言を使用したため、聖護院は西尾社を提訴した。

この訴訟は聖護院側の完勝に等しい形で1959年(昭和34年)9月に和解が成立。西尾社は商標に「本家聖護院」「聖護院」「創業二百何十年」などの文字を使用しないことを誓約。社名からも「聖護院」を削除し、現在の本家八ッ橋西尾に変更している。

それなのに京都府から創業100年以上の老舗事業者として、表彰されたのは西尾社だった。表彰されるべきは西尾為治氏の事業の継承者であるわが社だ、というのが聖護院および鈴鹿家の主張で、それを同業他社に訴えたのが『聖護院文書』だった。

井筒は今回の訴訟の中で、西尾家は八ッ橋の起源について「三河の橋説」に立っているのに、同じ西尾為治氏の祖先をルーツとする聖護院が「楽器説」に立っているのは、矛盾しているではないかとも言っている。

実は聖護院、西尾社以外にも、「本家八ッ橋」が1689年(元禄2年)創業を標榜している。だが、井筒は聖護院以外の2社を提訴する意思はまったくない。西尾社は為治氏の長男が、本家八ッ橋は三男が設立している。どちらも「三河の橋説」を起源としていることに加え、今に至る八ッ橋の興隆を築いた西尾為治氏への同情とも無関係とは言えないだろう。

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