「八ッ橋」訴訟、なぜ業界各社は沈黙するのか 井筒vs.聖護院、内容次第ではルーツも揺らぐ

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元宇治市歴史資料館館長で京都の郷土史に詳しい辻ミチ子氏の著書『京の和菓子』(2005年)によれば、八ッ橋はもともと地味な農村菓子だったが、1877年(明治10年)に京都に鉄道が通り、西尾松太郎氏が京都駅で販売するようになって以降、土産物としての地位を得たらしい。

聖護院本店の向かいには西尾の本店がある(編集部撮影)

その松太郎氏の子息が1879年(明治12年)生まれの西尾為治氏。為治氏はマーケティングに先見の明があったようで、1900年開催の仏パリ万博に八ッ橋を出品して銀賞を受賞している。

1915年(大正4年)に京都で大正天皇の即位式が行われた際には、移転改装された京都駅で八ッ橋を販売。爆発的に売れたらしい。為治氏は京都の八ッ橋業界全体の中興の祖と言っていい存在だったのだろう。

井筒が為治氏ゆかりの業者を問題視しない理由はそこにもあるのかもしれない。

最重要の争点は八ッ橋の発売時期

今回、井筒は聖護院の表示が不正競争防止法の品質等誤認行為に該当する、として訴えている。ただ、井筒は八橋検校の法要が始まった70年近く前から聖護院が「楽器説」を唱えていることを知っていたはずで、法的には長期間黙認してきたことになる。

井筒側の「聖護院側の創業年や起源に関する露出が近年飛躍的に高まり、看過できなくなった」とする主張がどこまで認められるのかにもよるが、不正競争防止法に詳しい上山浩弁護士は「今になっての権利行使は、権利の濫用とされる可能性がある」と見る。

さらに、「元禄という江戸時代の年号は、大正や昭和に比べて消費者に由緒正しい歴史を有する商品という印象を与え、商品選定に影響を与える。一方、起源については、今後の原告の立証次第ではあるが、『楽器説』か『三河の橋説』かが一般消費者の商品選択に影響を及ぼすとは考えにくい。このため、西尾為治氏の祖先が元禄2年(1689年)に八ッ橋を売り出したということが事実に反するのであれば、違法と判断される可能性があるが、それが事実で、法人に連続性が認められるなら問題にならないのではないか」(上山弁護士)。

つまり、最も重要な争点は、「楽器説」なのか「三河の橋説」なのか、ではなく、①元禄2年(1689年)に八ッ橋が売り出された事実があること、②売り出した人物が西尾為治氏の祖先であること、の両方を立証できるかどうかにある。

西尾為治氏の事業と現在の聖護院の事業の連続性の立証以前に、為治氏の正統性を立証できなければ、違法になる可能性がある。

現存する八ッ橋に関する文献は、発行時期が戦後に集中しており、しかも八ッ橋の起源に関する記載は、井筒、もしくは聖護院からの聞き書きに頼っている。

戦前の文献は、京都府内務部が1926年(大正15年)に発行した京都の名物紹介本『京の華』くらいしかない。

もっともその『京の華』も、為治氏本人からの聞き書きの可能性が高く、記載内容も「為治氏の祖先が元禄2年(1968年)に三河の僧侶から八ッ橋の製法を授かり、聖護院の森で売り始めた」というものにとどまり、その祖先の実名の記載もない。

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