「八ッ橋」訴訟、なぜ業界各社は沈黙するのか 井筒vs.聖護院、内容次第ではルーツも揺らぐ
6月12日、京都市内では2つの法要が執り行われた。
追悼されたのは、今から333年前の1685年(貞享2年)6月12日に没した八橋検校(やつはしけんぎょう)。江戸前期の著名な箏(そう、和琴によく似た楽器)曲演奏家。浄土宗の金戒光明寺の脇寺、常光院(通称「八つはしでら」)に眠っている。
同日、この寺で、八橋検校の334回目の法要が執り行われた。施主は井筒八ッ橋本舗(以下、井筒)。京都土産の代表格「八ッ橋」の大手業者だ。同日午後、哲学の道にほど近い法然院でも八橋検校の法要が執り行われた。こちらの施主はライバル・聖護院八ッ橋総本店(以下、聖護院)である。
70年近くも続く確執
この8日前の6月4日、井筒は聖護院が公表している創業年(1689年、元禄2年)や起源に偽りがあるとし、広告や商品説明への創業年などの記載の差し止めと、損害賠償を求める訴訟を京都地方裁判所に起こしている。
井筒側が提訴当日に記者会見を行ったため、提訴の事実は世間の知るところとなったわけだが、申し立て当日に聖護院側に訴状が届いているはずもなく、同社は「ただ驚くばかりで、今後対応を検討したい」とのみコメントした。
だが、このコメントとは裏腹に、両社の間には70年近く続く“確執”がある。
京都名菓八ッ橋の起源には2つの説がある。1つは八橋検校の箏に似せたせんべい状の焼き菓子を、八橋検校の墓に詣でる検校の弟子たちに販売したというもの(「楽器説」)。もう1つが、『伊勢物語』第9段かきつばたの舞台である三河の国の八橋にかけて、8枚の橋板を模したせんべい状の焼き菓子が八ッ橋の元祖だという説だ(「三河の橋説」)。
現在、京都の八ッ橋業者の団体「京都八ッ橋商工業協同組合」(以下、商工協)には14社が加盟しているが、このうち「楽器説」に立っているのは井筒、聖護院を含め全部で6社。一方、本家八ッ橋西尾(以下、西尾社)らが「三河の橋説」を唱えている。
楽器説に立ち、聖護院を除く5社で構成しているのが「京名菓八ッ橋工業協同組合」(以下、工業協)だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら