マクラーレン、6年で年商1000億円の奇跡 ブランドをどう作り、ビジネスに仕立てたか

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McLarenという姓はスコットランドを起源に持つ。彼の国では「Mc」は「息子」と言う意味で、つまりは「Laren」の息子。ラーレン一族を意味する姓となる。ブルースの曽祖父の代にニュージーランドに移住。ニュージーランドの国内レースで実績を上げたブルースは、英国へのレース留学を勝ち取る。そして1959年にクーパーチームからF1デビューした。

クーパー・カー・カンパニーとはジョン・クーパーが父とともに設立したレーシングカーコンストラクターであり、日本人に最もなじみがあるのはBMC(後のローバー)「ミニ」の高性能版であるミニ・クーパーだろう。

このクーパーは1959年と翌1960年にF1のコンストラクターズチャンピオンを獲得するが、その原動力となったのが、ミッドシップレイアウトである。F1にミッドシップ革命をもたらしたのがこのクーパーF1であり、後にロータスがそれを引き継いで黄金時代を築いた。そのF1史上の重要な技術革命に立ち会ったドライバーのひとりがブルース・マクラーレンであった。

ブルースは1966年に独立し、自らの名を冠したF1コンストラクターを創立する。そのベースになったのは当然クーパーのクルマ作りだったはずだ。残念ながら、ブルースは1970年にカンナム用マシンのテスト中に事故死を遂げるが、彼の名を冠したチームはその後各種レースで名をとどろかせた。

日本では当時最強のホンダエンジンに加えて、アラン・プロストとアイルトン・セナのドリームチーム「マクラーレン・ホンダ」が破竹の勢いで16戦15勝を記録した1988年のF1「MP4/4」が最も有名だろう。このMP4シリーズは1981年にジョン・バーナードの設計によるカーボンモノコックを採用しており、これが現在のマクラーレン市販車の「ミッドシップ+カーボンシャシー」という方程式のスタートラインとなっている。

最初のロードカーが決めたマクラーレンの価値

さて、この少し後にもうひとつのプロジェクトがスタートした。マクラーレン製ロードカー計画だ。F1デザイナーとしてつねに「鬼才」とうたわれるゴードン・マレーが、ブルース・マクラーレンの見果てぬ夢であったロードカー生産を託されて1993年に世に送り出した「マクラーレンF1」である。当時すでに生産車でもカーボンシャシーに先行例はあった。フェラーリF40がそれだが、F40の主構造体は旧来からある鋼管スペースフレームであり、バルクヘッドなどの補強材としてカーボンが使われたにすぎなかった。

「マクラーレン・セナ」も全身がカーボン化されている(撮影:尾形文繁)

しかし、マクラーレンF1は本気も本気、サイドシルやバルクヘッドのみならず、ドアやエアインテークが設けられたルーフ部までのフルモノコックが熱可塑性のプリプレグを使ったオートクレーブ成形法で作られている。40以上のパーツに分割され、最終的には接着によって組み上げられるとはいえ、このプリプレグは高価な上に釜で時間をかけて加熱して硬化させる必要があり、しかも加熱中に変形が起こって歩留まりが悪かったため、これだけの複雑な構造すべてをカーボン化した例はない。

マクラーレン自身の説明によれば当時1台のシャシーを生産するためにはなんと3000時間という途方もない時間が必要だった。現在ではレジントランスモールの一体成型によって、わずか4時間で生産できるようになっている。

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