鳶職から転身したITベンチャー社長の生き様 失敗は当たり前、未熟だから乗り越えられた

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大学2年になるといよいよ光熱費が払えなくなり、生米に水をかけて食べることもあった。こんな生活が続くはずはない。「ついに大学を辞めて働くしかないとなったときには、挫折感というか、本当に悩みました」。

教育熱心な家庭に育ち、将来はホワイトカラーの専門職に就くのが親も自身も望む人生だった。それが大学卒業すら果たせない。「でも悩んで、悩んで、どう考えてもそれしか生きていく道はないと腹に落ちた。だからいろんな思いを吹っ切って、一から頑張ろうと決意できました」。

鳶の仕事は想像以上にキツかった

大学中退後すぐ、知人に小さな建設会社を紹介され、住宅建設現場で足場を組む鳶職人の仕事を手伝うことになる。内山さんはもともと体が弱く、アルバイトでも引っ越し作業など力仕事を避けてきた。それが鳶職人として社会に足を踏み入れるとは皮肉だ。

しかも仕事は予想をはるかに上回るキツさだった。「木材も工具も、何もかもが信じられないほど重くて。最初は仕事の翌日、立ち上がれなくなるほど。この仕事を続けていける気がまったくしなかった」。自分では適性が感じられない仕事が何とか続いたのは、「食える報酬」が得られたからだ。

当初は日給5000~6000円で、月に25日働いて十数万円を手にした。体力では同僚に負けるものの、得意の物理の知識が生き、崩れにくい足場の組み方は早くに理解できた。現場に出て2年目ごろには年収500万円に届くようになり、20代半ばには建設会社の契約社員から正社員になった。この頃、結婚もした。

ところが20代後半を迎えると、建設業界の冬が待っていた。「工事の受注単価が急激に下がり始め、職人さんに支払う額もみるみるうちにかつての半額ぐらいになってしまった」。背景にあったのは耐震偽装事件とそれを受けた建築基準法の改正。この先、建設業界で食べていけるのか、ほかにできることはないのか――内山さんが注目したのはITの世界だった。

会社の仕事が終わった後、ガイド本をひもときながら見よう見まねでiモード向けのアフィリエイト(成果報酬型の広告)サイトを自作。ちょっとした工夫で収入がじわじわ増えるのが面白く、平日でも未明までパソコンに向かった。広告収入はいちばん多い時期で月200万円に上った。ただ、これで食べていこうとは思えなかった。「僕が攻略できる程度なら、誰でもできる。早晩限界が来ると思っていた」。

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