佐川氏不起訴の病根は、日本をどこに導くか 処罰感情を社会の改善に生かす知恵が必要だ

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さて、この冤罪事件への反省から、『検察の理念』が定められた。十か条からなる項目に先立ち、1ページほどで趣旨が述べられている。その中には、「あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処分の実現自体を成果とみなすかのごとき姿勢となってはならない」といった表現がみられる。冤罪事件を見るにつけ、本当にそうあってほしいものと切に思う。だが、それより今注目したいのは、「権限行使のあり方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する、謙虚な姿勢を保つべき」というくだりである。

もちろん、国民の利益といっても、国会の空転が目に余るから司法が代わりに出ていこう、といった乱暴なことを許容する趣旨ではない。あくまで、「刑罰法令を適正かつ迅速に適用する」範囲で考えなくてはならない。では、その観点で今回の不起訴はどうか。

不起訴を不服とする大阪の弁護士や神戸の大学教授のグループと、東京の市民団体が、検察審査会に審査を申し立てている。東西の申立者は、不起訴を不当とする点で共通するが、その理由において力点に差がみられる。

東京の市民団体は「詭弁(きべん)を弄(ろう)して財務省の担当者らを免罪した大阪地検の判断の甘さには驚かざるをえない」「検察の判断は国民が到底納得できるものではなかった。今後、検察審査会で審査され最終的に裁判所に判断してもらうことを期待したい」(NHKの報道から抜粋)
と怒りを表し、処罰の希求を示唆している。

これに対し、大阪のグループは「全員不起訴では真実が明らかにならない。常識ある市民から選ばれた検察審査会で起訴すべきだと判断し、公開の法廷で真実を明らかにしてほしい」(同)としており、こちらは主に真相解明と国民への開示を期待していると見受けられる。

ヒトはなぜ「懲らしめたい」と感じるのか

処罰か、真相の解明か。

まず、処罰派の立場を見よう。その原理は、膺懲(ようちょう)感情、すなわち「成敗して懲らしめたい」という感情である。感情は本能であるから、理論的な分析には向かない。問題は得失ではなく、正義のために許せない、という義憤にある。

懲罰によって、社会に害をなす者を取り除き、あるいは害をなす行動を抑止できれば、集団に有益である。だから、人類のように社会性が高く、かつ集団淘汰を受けてきた種には、悪い奴を懲らしめようとする本能が生じうる。なお、各個体の利益だけを見れば、けしからぬ奴をやっつけるより、その労力をほかに注ぐほうが有益である。個体生存に利がないにもかかわらず、膺懲感情が進化した理由は、これが社会ルールの順守に有用であり、集団選択を通じた種の優位性につながったためと考えられる。

この観点からすると、反省のない者を見ると膺懲感情が強くはたらき、悔い改める者に対して許容心が生じるのは、合理的である。当人が反省し改めるなら、懲罰を加えずとも再発は防止され社会利益は実現する。逆も真なり、である。

さて森友問題において、一連の文書改ざんや事実に反する答弁など、起きた事象の秘匿行為は、好ましいものではない。さらに、画像などで中継された当事者の態度が何を表すかは、複雑で興味深く、筆者としては本能と進化の観点から、一編の論考に値すると考えているが、それはさておき、少なくとも反省がみられないことは誰の目にも明らかであろう。したがって、懲罰には一定の合理性がある。いわば、情または昔ながらの本能に頼る再発防止である。

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