21世紀の太宰治、その言葉はSNSで「拡散」する 熱狂的な信望者とアンチを生み出した作家
さて、没後60年・生誕100年というタイミングでにわかに盛り上がった太宰治。そんな近年の太宰リヴァイヴァルでは、これまでの暗くじめじめとした側面ではなく、どこか憎めないチャーミングな側面が発見されている。木村さんは当時のことを次のように振り返る。
「わたしはもともと、太宰治の笑える部分や、中期の短編に惹かれたところがあったので、そういう部分を自分の声で届けたいという思いはありました。映画『ヴィヨンの妻』の公開時も、わたしが太宰に通じるなと思う人に選書を頼んで書店に書棚を作ってもらうなど、いろいろやらせてもらいました。この時期は、わたしがこういうことをやっても許されるような雰囲気があったのかもしれません。とはいえ、批判もけっこうありました。だから、ひとつひとつが賭けでしたね」
2009~2010年くらいは、木村さんの発言にもあらわれているように、暗い太宰から明るい太宰へ移行する過渡期だったと言えるかもしれない。2009年に出版された『太宰萌え 入門者のための文学ガイドブック』(岡崎武志監修、毎日新聞社)も、執筆者のひとりである木村さんいわく、「タイトルで遊んだりすることで、いかに太宰治が面白いかを示そうとした」ものだった。
妙にチャーミングでサーヴィス精神ある人
たしかに、太宰の作品には、妙にチャーミングなところがある。あの有名な『人間失格』でさえ、あらためて読むと、作中人物である葉蔵の苦悩に共感する一方で、周囲に嫌われまいと必死にとりつくろう姿には愛らしさを感じる。もちろん、葉蔵は葉蔵で切実な部分もあるに違いないのだが、そんな葉蔵をどこかユーモラスに描くような表現に、つい愛嬌を感じて笑ってしまう。木村さんは、このような太宰(作品)のありかたを「サーヴィス精神」と表現する。
「太宰はサーヴィス精神の人なんですよね。実際に太宰と交流をもっていた人にお話を聞くと、太宰は目の前にいる人間がつまらなそうにしていることが耐えられない人だったというんですね。どんなに自分が落ち込んでいても、その人を笑わせるために何者にでもなっていた。だから太宰は、自己保身のために道化を演じていたという以上に、他人を楽しませるために自分を変えることができた人だったのではないか。
それは短編や随筆にもすごく描かれていますよね。『恥』という短編なんかは、そんないろんな顔を見せていた太宰の研ぎ澄まされた部分が出ていると思います。『人間失格』で描かれている人物像はインパクトが強すぎるので、それが太宰像だと思われがちだけど、そんなに一辺倒ではないと思うんですよね」
サーヴィス精神旺盛な太宰には、たくさんの顔がある。僕が好きな作品に『親友交歓』という短編がある。実家の「私」をたずねてきた小学校時代の「親友」とのやりとりを描いた話だが、男の無遠慮な振る舞いにいらだちつつも、ついずるずると「交歓」をしてしまう「私」が可笑しい。作品にもあらわれているように、作中人物も、作者も、あるいは作品そのものも、目の前の人をいかに楽しませるかというエンターテイナーとしての意識が強くあるのだ。
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