構図が酷似!明治14年の「森友事件」の末路 事件に便乗して権力を手にした人物は?
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
なぜ官有物が「格安」で?
Q1. そもそも「北海道開拓使」とは何ですか?
北方領土の確定と北海道地域の国防上の重要性に鑑み、同地の殖産興業の一環として、明治政府が明治2(1869)年7月に設置した官庁です。中央の各省と同格に列する機関でした。
明治3(1870)年に黒田清隆が「開拓使次官」に就任すると、使庁を札幌に置き、明治5(1872)年から10年計画(国費1000万円と開拓証券250万円)が策定されます。そして、「道路・鉄道・官営工場の建設」「炭鉱開発」「農場経営」などを中心に、明治15(1882)年2月まで近代産業の育成や輸出産業の振興が図られました。
明治7(1874)年からは、黒田は「開拓使長官」を務めています。
Q2. 黒田清隆とは誰ですか?
薩摩出身の軍人・政治家として、幕末から明治期に活躍した人物です。
戊辰・箱館戦争では「北陸道鎮撫軍参謀」「軍務官主任参謀」として、五稜郭に立てこもった榎本武揚(1836~1908)と最後まで対峙するなど数々の軍功を上げ、明治新政府でも要職を歴任します。
薩摩派の重鎮である大久保利通(1830~1878)が暗殺されたあとは、西郷従道(つぐみち・1843~1902)とともに同派の最有力者として政治の一翼を担いました。
のちには、第2代の総理大臣を務めることになります。
Q3. 官有物は「誰に」払い下げられようとしたのですか?
実際には、多くの官有物は開拓使の官吏が設立した「北海社」に払い下げられることが決まっていました。ところが、新聞スクープでは薩摩出身の実業家・五代友厚らが設立した「関西貿易商会」に払い下げられると報じられたのです。
このことが知れ渡ると、新聞各紙によるスクープ合戦となり、世論も沸騰しました。
Q4. なぜ五代への払い下げが、そんなに騒がれたのですか?
黒田と五代が、同じ薩摩閥のいわゆる「お友だち」だったからです。しかもこの2人は、同じ鹿児島人でもさらに強い絆をもつ、「郷中(ごじゅう)」と呼ばれる同じ地区の出身者同士でした。
新聞各紙は、薩摩閥の官僚と政商が結託して、官有物を私物化しようとしたと騒ぎ立てました。そして、こうした癒着をなくすためには、当時はまだ開かれていなかった「国会」を、早期に開設するしかないというキャンペーンを張ります。
黒田が国会開設に消極的だったことも手伝って、世論も激高しました。
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