構図が酷似!明治14年の「森友事件」の末路 事件に便乗して権力を手にした人物は?

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Q9. 払い下げ事件で権力基盤を固めた人物とは?

伊藤博文(1841~1909)です。

新政府内では、1877(明治10)年の西南戦争前後から、重鎮木戸孝允(たかよし・1833~77)の病死と大久保利通の暗殺事件後、伊藤博文・井上馨(かおる・1835~1915)の長州派閥と黒田清隆・西郷従道の薩摩派閥、そして大隈重信(1838~1922)の肥前派閥の三者鼎立状況でした。

そしてこの頃、政府内で国会開設をめぐって、「じっくり漸次進めよう」という伊藤博文らと、「早急に開設を」という大隈重信らの微妙な対立が大きな課題となっていました。

大隈は福沢諭吉(1835~1901)や岩崎弥太郎(1834~85)ら言論界・経済界からの支援を受けて、伊藤を出し抜こうと画策していました。一方、黒田はそもそも早期の国会開設には消極的でした。

こうした中で、新聞各紙は黒田を攻撃するキャンペーンを張り、政府に対して「早期に国会を開設せよ」という攻撃を始めます。実は政府内の一部で、このキャンペーンが「国会を早く開きたい大隈の陰謀である」と考えられたのです。

「陰謀説」を利用して巧妙に画策

Q10. 本当に大隈は陰謀を企んでいたのですか?

この「陰謀説」が真実かどうかは不明です。近年では、「開拓使の事業は儲からない」と知った関西貿易商会の関係者がリークしたという説も出されています。

ただその真相はともかくとして、この「陰謀説」に目ざとく飛びついたのが伊藤でした。一連の顚末を「すべて大隈の仕組んだ謀略」と断じ、攻撃されていた黒田と連携すると、機に乗じて政府を混乱に導いた張本人(?)の大隈を、明治天皇からの許しを得て罷免へと追い込みました。

これが「明治十四年の政変」と呼ばれる、伊藤によるある種の政敵追放クーデターでした。

Q11. 黒田は責任を問われなかったのですか?

直接の「処分」はありませんでした。ただ、自らが進めた払い下げ中止も打撃となり、内閣顧問という閑職に追いやられました。

薩摩派の領袖としては、しばらくのあいだ勢力権力がそがれることになったのです。

次ページでは、伊藤博文のその後は?
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