「相撲は国技」の看板を信じてはいけない理由 もめ事こそ、相撲界の「伝統行事」である

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行司の烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)という装束も、旧両国国技館開館の翌年(1910年)に決められた。それまでは武士と同じ裃(かみしも)だったから、あえて一時代前の装束となって古式を強調している(そもそも行司の誕生は信長の頃だから、あんなに平安朝なわけがない)。

「伝統」は自ら過去へ遡っていく性質があるのだ。

「国技」の看板をはずして問題と向き合おう

土俵を「神聖な場所」と見る考えは、多くの方に理解できるだろう。それはピッチャーがマウンドを、ボクサー、レスラーがリングを神聖と見る気持ちと同じだ。いや、スポーツだけでなく、たいていの仕事では自らが働く現場を神聖と考え、敬虔な気持ちになり、他者の侵入を嫌う傾向がある。現実的には、それで事故や怪我を防ぐ効果もある。

現在の両国国技館(写真:sunny / PIXTA)

だが、その「神聖」な土俵上のことだって、変わってきているのだ。1928(昭和3)年、NHKのラジオ放送が始まったので、仕切りに制限時間ができた。同時に土俵上の仕切り線もできた。土俵の大きさは、江戸以来直径十三尺(3.94m)の二重土俵だった。が、1931(昭和6)年、内側の円をなくして直径十五尺(4.55m)の一重土俵になった。戦後1945年、一場所だけ直径十六尺(4.85m)になったが、また十五尺に戻って現在に至る。

土俵の上にある屋根は、江戸時代は切妻造り。旧両国国技館ができて入母屋造りになる(このほうが格式が高いとされる)。1931(昭和6)年には、神明造り(神社の形式)に変わって今に至る。その屋根を支える四本の柱は1952(昭和27)年に取っ払われ、代わりに四隅に房を垂らした。現在の黒房・青房・赤房・白房だ。

人は、自分がいま見ている「伝統」が遥か昔から不変のものと思いがちだ。外部からだけでなく、むしろ内部の者ほどそう思い込んでしまう。けれど実は、いろいろ変わることで生き延びてきたものが、いま目の前にあるにすぎないのだ。

もちろんこれは、相撲に限った話ではない。最近の相撲界の騒動は、実はそう古くない「国技」の看板をはずして考えると、答えが見つけやすいのではないか。

藤井 青銅 作家・放送作家

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ふじい せいどう / Saydo Fujii

23歳のとき、第1回「星新一ショートショートコンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家としての活動に入る。メディアでの活動も多岐にわたる。著作に『「日本の伝統」の正体』『幸せな裏方』などがある。

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