「相撲は国技」の看板を信じてはいけない理由 もめ事こそ、相撲界の「伝統行事」である

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ところで、「国技」というのは何だろう? 江戸時代後期の文化・文政時代(1804~1830年)、当時盛んだった囲碁を、武士階級が「国技」と称したのが初出のようだ。「技」だから、別に体力モノでなくてもいいのか。すると、現在東京・市ヶ谷にある日本棋院が「国技館」を名乗ってもよさそうだ。

他に、剣道、薙刀、柔道でも違和感はない。嘉納治五郎(かのう・じごろう)が古来の柔術を「柔道」として「講道館」を創設したのは1882(明治15)年。もしこっちが先に「国技館」としていたら、27年後に相撲は「国技」を名乗れなかったかもしれない。

さて、両国にできた相撲の「国技館」は、大成功した。すると各地に同様の建物ができるのだ。同じく東京・浅草の凌雲閣隣に「浅草国技館」(1912年)。さらに「京都国技館」(1912年)、「名古屋国技館」(1914年)、「大阪国技館」(1919年)、「大阪大国技館」(1937年)。

なんと日本は「国技館ブーム」だったのだ! 時代を見ればわかる。明治の終わりから大正。日本は日露戦争(1904年)をきっかけに、「国」としての高揚感が増していたときだ。ずっと遅れてできる「大阪大国技館」は、双葉山ブームのとき(昭和12年)。双葉山の連勝記録は日中戦争の日本軍に重ねられたことが、よく知られている。

日本相撲協会がまとめた『近世日本相撲史』には、昭和10年代(1935~1944年)について、「この年代ほど国民から愛され親しまれたことは、長い相撲史の中でも他にない。戦争という勝たねばならない時代に、相撲は敢闘精神の訓育のために、国民体育の鍛錬のために、ますます盛んになった」とある。

大陸巡業や皇軍慰問など、相撲側からも国側からも互いに「国技」という肩書は利用価値が高かったのだ。そして、当時の「国」は色濃く「神道」と結びついている。古代の相撲には素朴な神事の側面もあったが、ことさら神道との結びつきが強調されるのは、このときの成功体験によるものではないか?

実は西洋建築だった両国国技館

旧両国国技館の意匠は、日本銀行本店や東京駅を設計したことでも知られる辰野金吾によって手がけられた。ドーム式で、天井には3個のシャンデリアが輝いていたという。バリバリの西洋建築だ。

旧両国国技館(写真:Public domain via Wikimedia Commons)

ところが、そこにつけられた「国技館」という名前に引っ張られ、戦後の「蔵前国技館」(1954年)、さらに現在の「両国国技館」(1985年)へと、建物が和風になっていくのだ。

現両国国技館は、遠目にはなんだか巨大な四阿(あずまや)か、竪穴式住居みたいでもある。

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