世界初の地下鉄がキュウリに例えられた理由 英国公文書で分かった「地下鉄」の誕生秘話

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世界初の旅客専用鉄道となるリバプール&マンチェスター鉄道の開通日は、1830年9月15日。鉄道事故により人命が失われる最初の日としても記憶されている。犠牲になったのは、リバプールの国会議員ウィリアム・ハスキソンである。

始発のリバプール駅から21キロ地点にあたるパークサイド駅で途中停車中、線路の上で談笑していた人々の中にハスキソンがいた。隣接した線路にロケット号が近づいてくることにすぐには気付かず、慌てて元の機関車の車両に戻ろうとしたが、間に合わなかった。片足に重傷を受けたハスキソンは、数時間後に亡くなってしまう。

どのぐらいの速度で機関車が迫ってくるものなのか、当時はその見極めが難しかったことも災いしていたのかもしれない。

英国国立公文書館には、スティーブンソン父子による蒸気機関車の改良エンジンの見取り図が残されている。深緑色の車体と細かな部品の数々が色鮮やかに描写されている。日付は1833年10月31日。この時、父スティーブンソンは51歳、息子のロバートは30歳であった。

世界初の地下鉄の開通

今となっては珍しくはないことだが、「道路の下に鉄道を作る」と言うアイデアは、当時は相当奇抜なものだった。これを実現させ、世界初の地下鉄がロンドンで開通したのは、1863年である。

きっかけはロンドンの混雑した交通状況だった。当時の英国は18世紀後半から始まった産業革命の最盛期だ。技術革新に伴って産業・経済・社会が大変革を遂げており、そんな産業革命の中心地の1つロンドンに通勤客が続々とやってくるようになった。馬車・車・バスが市内の道路を混雑させ、毎日約20万人が商業の中心地「シティ」に足を踏み入れた。

1850年代、市内には7つのターミナル駅があった。ところが、シティの中にある駅は1つだけで、シティと周辺をつなぐ新たな鉄道駅の設置が必要となってきた。そこで浮上したのが、地下に鉄道網を広げるという考えだ。

「シティ・オブ・ロンドン」自治体の顧問だったチャールズ・ピアソン(1793~1862年)は、1830年代から地下鉄構想を提唱してきたが、なかなか実現には至らなかった。ロンドン市内の鉄道路線の新設について調査を開始した王立委員会が、地下鉄建設にゴーサインを出したのは1854年である。

地下にトンネルを造る技術については、すでにテムズ・トンネルの先例(着工開始1825年、完成1843年)があった。これはロンドンのテムズ川の川底に建設された水底トンネルで、航行可能な河川の下に初めて建設に成功したトンネルといわれている。全長約400メートル、断面は幅約11メートル、高さ約6メートル。「シールド工法」によって掘削された。これは鋼製の「シールド」と呼ばれる筒をジャッキで押し進めながら掘進し、シールド後部ではセグメント(鉄またはコンクリート枠)を組み立てて固定する手法だ。

王立委員会による地下鉄建設のゴーサインを受けて、1860年、民間会社メトロポリタン・レイルウェイが工事に着工した。この時には「カット・アンド・カバー」という工法が用いられた。道路を深く掘り、線路を敷いてからふたを閉めるように塞いで屋根を覆うやり方だ。

地下を走る列車の発想になじめなかった人は少なくなかった。当時のタイムズ紙は「空飛ぶ自動車と同じぐらいばかげた、常識はずれなユートピア」と呼んだ(『英国ニュースダイジェスト』電子版、2013年1月9日号)のも、無理はない。

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