世界初の地下鉄がキュウリに例えられた理由 英国公文書で分かった「地下鉄」の誕生秘話

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
英国国立公文書館の外観(筆者撮影)
19世紀に発足した英国の国立公文書館には、さまざまな「公文書(パブリック・レコード)」が保管されている。その数約1100万点。公文書といっても、官僚が作った書類だけではない。公務に関係した地図、写真、絵画、ポスター、手紙、手書きメモ、手袋、一房の髪の毛、電報、電子メール、ウェブサイトとその種類は広範だ。
その一つひとつには、英国ばかりか、世界の歴史を物語るものが多い。『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』を上梓した筆者の目に留まった事物を紹介していこう。

「鉄道の父」が作らせた機関車の見取り図

1804年、世界初の蒸気機関車を走らせたのは、リチャード・トレビシック(1771~1833年)だ。トレビシックは「ペナダレン号」をウェールズ地方のペナダレンーアベルカノン間で走行させた。10トンの鉄と5両の客車、70人の乗客を乗せたペナダレン号は16キロメートルを走り、4時間5分でアベルカノンに到着する。平均時速は約3.9キロメートルである。

東洋経済オンライン「鉄道最前線」は、鉄道にまつわるホットなニュースをタイムリーに配信! 記事一覧はこちら

トレビシックは鉄道の歴史にその名を残すものの、彼が手掛けた蒸気機関車は実用化されずに終わってしまったので、「鉄道の父」という名称は別の人物に渡すことになった。これが、北部ノーサンバランド州ワイラムで生まれたジョージ・スティーブンソン(1781~1848年)だ。

貧困家庭出身のスティーブンソンは、幼少の頃は学校に行くことさえままならなかった。小さな頃から炭鉱の機関夫だった父の助手として働き出し、後に夜間学校に通って読み書きを学んだ。

結婚して家庭を持ち、1803年には愛息ロバートが生まれたが、その後に生まれた長女がすぐに亡くなり、妻フランシスも病死した。いったんはスコットランドに職を求めて渡ったものの、再度家族の元に戻り、1811年からはノースタインサイド州のキリングワース炭鉱で機械修理を統括するようになった。いよいよ、ここでスティーブンソンの視野に蒸気機関車の開発が入ってくる。

当時、蒸気機関車の目的は木材や石炭などの燃料輸送である。1814年、「ブリュヘル号」の走行に成功した。世界初の蒸気機関車による商用鉄道の開通も、スティーブンソンが手掛けた。1825年9月27日、イングランド北東部ストックトン―ダーリントン間が初の走行だった。

この蒸気機関車の製造のため、スティーブンソンは息子の名前を冠した「ロバート・スティーブンソン・アンド・カンパニー」を立ち上げる。ロバートは18歳で常務取締役に就任した。ロバート・スティーブンソン・アンド・カンパニー社は初期の蒸気機関車の大半を製造し、スティーブンソンは「鉄道の父」と呼ばれるようになる。

次ページ世界初の鉄道事故
関連記事
トピックボードAD
鉄道最前線の人気記事