鵜野社長は滋賀県の琵琶湖のそばに生まれた。家業は琵琶湖の鮎を佃煮にしている佃煮屋だった。そこで高校まで過ごした。
「子どもの頃はいかにも昭和30年代の田舎の子どもって感じでしたよ。琵琶湖にもぐってウナギ突いて焼いて食べたり、ヘビを捕まえて皮をむいて遊んだり、木に登って枝にぶら下がって枝を折り、クリの実をとって、そのまま谷に落ちたりもしてました」
昭和30年代の小学校低学年時代では、今でいう学級崩壊のような状態で、授業中勝手に抜け出していく子どももいた。ただみんな悪意はなく無邪気な感じだったという。そんな中、鵜野社長は勉強ができるほうだった。
「考えればできる科目は得意でしたね、算数は習わなくてもわかりました。絵や習字も上手でした。でも英語だけは絶対勉強しなかったですね。努力して勉強する気にはなれなかったですね。いまだにまったくできません」
大学受験ではその英語がネックになった。英語がゼロ点に近いので、他教科ができれば入れると考え、日本大学法学部に入学した。
「虐げられてる人を助けたい」という思いがあった
「将来は弁護士になろうと思ってました。虐げられてる人を助けたい。弱いものの味方になって、決して強いものに負けたくない。これらの心情は、実は今も基本精神として持ってるんですよ」
在学中、鵜野社長は弁護士資格を取ろうと思っていたのだが、当時の日本大学は、日大闘争の真っただ中だった。
いろいろあって大学卒業後は、知り合った東京大学の人たちなどの仲間で集まり“現代の世界を研究する研究所”を作った。そこでは生活のために学生向けの教材を請け負って製作していた。
「小学校1年から高校3年までの、教材を作ってました。僕もテキストを書いてましたね」
鵜野社長は35歳の時に、新たに出版社を作ろうと思い立ち、スタッフの1人とともに会社を辞めた。
そしてデータハウス社を作った。データハウスという名前は「思想ではなく、データを世に出そう」という社長の思いからつけられた。
「本を出すからには真っ向からやろうって思いました。だけどカネはありません。最初に出す本は絶対に話題にしなければならないから、ずいぶん悩みましたね」
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